説教 「エッファタ!」 大柴 譲治

マルコによる福音書 7:31ー37

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

メシアのしるし

本日の福音書の日課ではイザヤ書の預言がイエスにおいて成就したことが語られています。「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ35章4~6節)

しかしそのことに民衆は気づかない。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と讃美しつつ、それを旧約の預言の成就、神の到来と救いのしるしとしては明確に認識していないのです。

実は、マルコ福音書が記す主イエスの奇跡はすべて、メシアのしるしとして記されています。1章から10章までは各章に奇跡が最低一つは記されているのです。

1章・(1)汚れた霊につかれた者の癒し、(2)多くの病人の癒し、(3)重い皮膚病を患っている人の癒し。
2章・中風の人の癒し。
3章・手の萎えた人の癒し。
4章・突風を静める。
5章・(1)悪霊に取り憑かれたゲラサ人の癒し、(2)ヤイロの娘と、(3)イエスの服に触れる女性の癒し。
6章・(1)5千人の給食とガリラヤ湖上歩行、(2)ゲネサレトでの病人の癒し。
7章・(1)「食卓の下の子犬も子どものパンくずはいただきます」と言った信仰深いシリア・フェニキアの婦人の幼い娘の癒し。(2)本日の日課に記された癒し。
8章・(1)4千人の給食、(2)ベトサイダでの盲人の癒し。
9章・汚れた霊に取り憑かれた子の癒し。
10章・盲人バルティマイの癒し。

興味深いのは11章以降、エルサレムに迎え入れられて以降は、主はぱったりと奇跡を行わなくなるということです。そしてまったく無力なまま十字架につけられてゆくのです。

マルコ8章12節には、天からのしるしを求めるファリサイ人に対して主イエスが次のように心深く嘆いたとあります。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

「天からのしるし」というのは「神ご自身がイエスが約束されていたメシアであるということを確証してくださるような決定的なしるし」ということでありましょう。どれほどイエスが奇跡を行おうとも、人々はそれを「メシアのしるし」としては見ようとしなかったのでした。そこには人間のかたくなさが表われています。彼らは見ても見なかったのです。彼らはそれを認めたくなかったからだとマルコは記している。

なぜ認めたくなかったのか。自分の地位や名誉を失いたくなかったためでありましょう。イエスの存在は彼らには驚異に思えたのです。イエスは思い上がった人々には痛烈な批判の矛先を向けて行きます。マルコはまだ控え目なのですが、マタイやルカになるとさらに厳しい言葉を記録している。マタイなどは次のような言葉まで記しています。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は使者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23章27節)。主は思い上がった偽善者たちに対してはたいへんに厳しかった。

反面、打ち砕かれた者、悲しむ者、弱い者、小さき者に対する主のまなざしは限りなく暖かく優しい。この両極がイエスさまの中には同居しているのです。

さらに、本日の最初に記された地名にも言及しておきたいと思います。「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とある。これは地図を見るとはっきりするのですが、まず北に上ってから大きく南に下り、そして再び北に上ってガリラヤ湖に戻られたという経路です。日本の地形に当てはめて言えば、「小田原から出て東京を越え、信濃川の谷を通過して琵琶湖に至るというようなものである」(NTD)となりましょうか。おそらくこの記事は、イエスの使信が異邦世界にも開かれていることを伸べるために、ガリラヤを囲むすべての外地をここに網羅したと考えられます。先週の日課であった異邦人の女性との出会いも、異邦人に対してもイエスの憐れみが豊かに注がれているということをユダヤ人に対して示していたのです。既に「救いの時」はイエスにおいて始まっているのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

「エッファタ」!

「エッファタ!」と語られたイエスさまのみ業にもう一度戻りたいと思います。それはメシアのしるしとして行われた出来事ですが、私たちにとってはどのような意味を持つのでしょうか。

マルコは記します。「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」。

耳が聞こえなかった人の耳が開かれ、口がきけない人の口が開かれた。「エッファタ(開け)!」というアラム語で語られた呼びかけの言葉は、自分一人の孤立した世界に置かれていた者をキリストへとつながる場へと呼び出した言葉であり、そのことによってその者を他者との豊かなコミュニケーションへと招いてゆく言葉であったと思います。

ここにキリストと出会う喜びがある。ある意味で自分自身の内なる律法主義にがんじがらめになっていた私たちを、主は「エッファタ」と言って、自由へと解放してくださったのです。「あなたは孤立している必要はない。自分の中に閉じこもっている必要はない。私があなたを神さまに向かって開く。自由になりなさい。神さまのいのちの息吹を受けなさい」。主は天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言って息を吐きかける。そこでは神の息吹によって新しい人間の創造が行われていると言ってよい。「主なる神は、土の塵(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2章7節)というみ言葉を想起します。

「これは私が誇りにしている息子だ」

一昨日よりシドニーオリンピックが始まりました。毎日その人間ドラマを楽しみにしている方も多いことでしょう。先週の月曜日から水曜日まで私は、武蔵嵐山の国立婦人教育会館で開かれたルーテル学院大学の工藤信夫先生の牧会事例研究に参加しました。その中で工藤先生が、バルセロナオリンピックでの陸上競技でのエピソードを紹介してくださいました。

それはこういうものでした。一人のランナーが競技中に肉離れか何かで倒れます。金メダルの有力候補であったようです。すると、警備員の制止を必死になって振り切って、一人の男性がそのランナーのところにかけよってゆく。そして彼を抱きかかえながらこう大声で叫んだというのです。「見てくれ。これはおれの息子だ。彼はベストを尽くした。そんな息子をおれは誇りに思う!」と。

私はこのエピソードを聞いて本当に心動かされました。惨めさと悔しい気持ちで一杯であったであろうその息子にとっては、実にありがたい父親の言葉だったと思います。たとえその時にはそれが分からなかったとしても、やがてそのことの深い意味が分かったに違いない。父親はボロボロになった息子をそのようにかばうことによって守ろうとしたのです。家族というものはそのような強い絆で結ばれており、親には子どもを守る責任があるのだということを私はもう一度教えられたように思いました。

耳が聞こえず、言葉を話すこともできない一人の男性を群衆からただ一人連れ出し、指をその両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられた主イエス。マルコ8章23節にも主は盲人の目に唾をつけて病手をその人の上に置いて癒されたということが記されています。私は母犬が傷ついた子犬をぺろぺろとなめて癒す姿がそこに重なります。人間の最も弱いところ、傷ついたところを主がそのようなかたちでかばい、癒してくださる。それはゴール寸前で倒れた息子の傷ついた心を、「この息子はベストを尽くした。それを本当に誇りに思う」と皆に向かって叫ぶことで、そのような深い愛を示すことで癒そうとした一人の真摯な父親の姿と重なるように思うのです。

主イエスの洗礼の時に、霊が鳩のように降る中で天から響いた声があります。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」(マルコ1章11節)。「エッファタ」という主イエスの声は、このような小さな破れの多い私たちにも関わらず、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを誇りに思っている」と告げてくださっているのではないか。そしてその愛と促しとによって私たちに本当に内的な自尊心を与えられ、閉じこもっていたところから解放され、他者とつながってゆく自由を与えられのではないかと思います。

「エッファタ!」。私たちの傷つき閉ざされた心は、あのキリストの十字架と復活とによって神の愛に向かって開かれたのです。十字架上から「I love you」と言ってくださるお方が、私たちの耳と口と目と心とを神さまに向かって開いてくださった。そしてそこにおいて私たちは、神の家族としての共同体を形成してゆく力を与えられるのです。

苦しみや悲しみの中にある者たちの上に、自分を愛することができずに深いところで傷つき、孤立し、苦しんでいる者たちの上に、神さまのあわれみのみ業が豊かにありますように。キリストの「エッファタ!」という力強い声が私たちの殻を打ち砕き、神のいのちの息吹が私たちを新しく造り変えてくださいますように。

お一人おひとりの上に祝福をお祈りします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年9月17日 聖霊降臨後第14主日礼拝)