説教 「福音のために命を失う者」  賀来周一牧師

マルコによる福音書 8:31-35

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

『他宗教との対話』

先週、ルーテル神学大学の主催で「教職神学セミナー」というのが行なわれまして、わたくしどもの教会からも数名の方々の御出席がございました。テーマが大変おもしろうございまして、「宗教間の対話」ということでのテーマでありました。今日、宗教戦争でありますとか、宗教的な対立の中で色々な争いごとが起こっているわけですけれども、そうしたことへの反省ということもあって、世界的な規模で宗教間の間で協力をしよう、対話をしようそういう動きが出てきているわけであります。そんなこともありまして、世界ルーテル連盟の研究部門の中のポール・ラジャシェカールというインド人の学者も招きましてですね、宗教間対話はどのような形で成立するか、そんな話し合いが一週間ございまして、牧師が主でございましたが、牧師夫人それから信徒の方々も御一緒になりまして、集まりがございました。各教派、カトリック教会の人たちも含めて、あるいは仏教の学者も含めての話しがございましたものですから、大変みなさん関心をもってお聞きになったようであります。

最後のところで、わたくし自身も教団の阿佐ヶ谷教会の大宮博先生と御一緒に、徳善先生と三人で、シンポジウムのシンポジストとして発題をさせていただき、いろいろな話をさせていただきました。基本的には、キリスト教徒として、クリスチャンとして、その宗教間対話がどういうふうな成立をするか、そういうところに学ぶわけであります。色々なおもしろいことがありました。中には新宿の花園神社に牧師さんたちが集団でまいりましてですね、そして、花園神社の神主さんは片山さんとおっしゃる方で、この人は宗教学者として有名な人なのですけれども、この神主さんの片山先生から皆でお祓いとか玉串法というものも習ったわけです。そのことが様々な反響を呼び、「牧師さんがそういうことをするのは、どうだこうだ」というような話もあったのですが、またそれはひとつのおもしろい体験であったということになったりもしました。

最近、牧師たちも延暦寺にこもって「行(ぎょう)」をしたりですね、あるいは、京都の禅寺にこもって禅をしたりする人も大変多くなりましたので、いろいろな形の宗教に対する理解も深まってきているわけです。わたしが、ひとりの牧師として、牧会に立っておりますひとりの牧師として、そこで申し上げたのは、キリスト教徒として他宗教にどう関わるか、そういう問題であります。教会のここ2、3年の牧会事例の中で、信徒の方々が遭遇なさいまして色々なケースがたくさんあります。それを全部抜き出しまして、分析した結果をお話し申し上げたのです。わたくしどもの教会の中でも、いろいろな仏教的なこと、神道的なこと、あるいは、いわゆる新宗教といいます創価学会でありますとか立正公正会でありますとか、そういった対宗教的なことが絡み込んできた様々な問題をわたくしどもは持っているわけであります。

二つの証し~大林末雄兄と芳賀清司兄

その中で、ひとつの、どちらかといえば極端なケースを、わたくしはここで申し上げて、今日の聖書の箇所との関連を見ていきたいと思っています。ひとつは、わたくしどもの教会の中でこういったことがあります。これは、お名前を申し上げてもよいと思いますけれども、大林宏先生のお父様ですね。海軍中将で元ミッドウェー海戦のときの海軍指令長官でございました大林末雄氏のことを申し上げます。アメリカの第七艦隊との対立をした一方の旗頭でいらっしゃいます。大林中将が、戦後、ネルソン先生というルーテル教会の宣教師のちょうどお隣どうしに住まわれたこともありまして、ネルソン先生が熱心に聖書を片手にして大林家に聖書の話しに行かれたわけです。大林中将はだんだんとこの聖書に興味を引かれまして、そしてとうとう洗礼をお受けになるのですね。大林家というのは豊橋の本家なので、大林家には親戚の方が大勢いらっしゃるのです。洗礼をお受けになられました時に、大林中将は御自分で仏壇や神棚を庭に持ち出して焼いて、そして自分はキリスト教でやることを表明なさった。そして親戚中に手紙をお出しになりました。「自分はキリスト教徒になった」ということを書状に書いて、親戚中に回されたのです。そしてその中で、じつは大林家の親戚の方でクリスチャンになられた方も何人かいらっしゃる。そういった影響を与えた方であります。

片一方にはこういう話もあります。わたくしどもの教会のメンバーに芳賀清司さんという方がいらっしゃいます。お名前を出して申し訳ないと思いますが、館林の電信電話局長をしておられた時のことです。NTTには運転手さんがたくさんいるわけです。運転手さんたちはべつにキリスト教徒ではありませんし、だいたい年頭には交通安全の祈願祭をするのですね。その時は、神主さんを呼んで交通安全の祈願のお祓いをするわけです。それで芳賀さんは局長としてそこにいらっしゃいますから、神主さんがお祓いをして交通祈願をなさる場にやっぱりいらっしゃらないといけない。その後芳賀さんがどうなさったかというと、これは聖書から運転手さんたちに訓辞をなさったのですね。これは大変喜ばれたという話しをおうかがいしたことがあります。

それで、片一方においてはキリスト教徒としての純粋性を保つためのひとつの行為がある。もうひとつは、他宗教の中に自分が飛び込んでいって、神主さんのお祓いの中で聖書の話しをするということをなさる。この両者が起こっているわけです。教会の中には、一方において他宗教と自分を一線を画す動きがあり、他方において他宗教と自分をひとつにしていく、そういうような動きがあることを見るわけでございます。こうした事例が、おふたりのこのいわば、「両極端」と申し上げると語弊がありますが、両方の形で現われた宗教的に関わるわたしたちの態度であります。こうしたことが、大なり小なり、わたくしがとりあげた八例の宗教に関わる事例の中に共通して見える傾向なのです。

そのことをさらに細かく見てまいりますと、ふたつのことが共通してその中にあることが分かります。芳賀さんのケースにも大林さんのケースにも共通してあることがあります。ひとつはそれは、キリスト者としての自分の信仰の表明であります。クリスチャンとして自分はこのことを信じている、ということを譲らないんですね。これがもうはっきりしている。それからもうひとつは、その自分を取り巻く周囲の人たちに対するあたたかい配慮であります。自分の周囲にいる人たちに対して、その人たちにとってどうすればよいか、どういう配慮をすればよいかということ、そういう配慮がおふた方にあるのであります。わたくしどもの教会のそういうこの、対宗教的に関わる事例を見て見ますと、このことは全部共通していることにわたくしは気づきました。これは大変うれしいことだと思ったのです。そして、「ルーテル教会だなぁ」とわたくしはそこで思いました。つまり、自分の信仰の確立を表明していると同時に、他者に対する配慮を失っていない。このふたつのことをきちんと守りながらですね、片一方においては信仰的に自分の一線を画す、片一方においては自分が他宗教とひとつになっていくということができうる。自在なその自分の身の処し方ができるということをわたくしどもは学び取っているのです。そういったわたくしどものルーテル教会としての、武蔵野教会のよさをあらためてそういう事例の中に見い出しているのですね。そのことをみなさんの前に発表させていただいたわけです。すると多くの牧師たちが、その時に、「やっとひとつのある筋道のたてかたが分かった」と言って帰った人が、とくに若い牧師の中にたくさんおりまして、わたくしはこのことを話してよかったなあとそういうふうに思った次第でございました。

十字架の重さ

けれども、じつは教職神学セミナーではそのことまでで終わったのですが、あらためて今日の聖書を読みました時にひとつ思いましたことは、たとえば神道儀式の中で聖書の話しをする、あるいは徹底して自分の信仰を仏壇や神棚を焼くという行為の中で表明していく、ともにこれは大きな十字架なのですね。自分の信仰を表明している。そして自分がそこでとるべき行為をきちんと見定めていくということは、これは大変大きな重たさであります。そういった意味で、十字架の重たさそのものをそこでわたくしどもはいやでも思い知らされていく。そのことをお二方のそうした証しの中に見てとることができると思ったのであります。自分のとるべきそこでの行動、それは非常に重たいものです。神主さんのお祓いの中で聖書を語る、庭に自分の仏壇や神棚を持ち出して焼くということは、どんなに重たい行為か、そのように思います。わたくしどもはそのことは、なかなかなしがたいことでもあるわけです。そうした重たさを感じることの中で、他者への配慮と信仰の表明がなされていく。これはまた、わたくしどもが負うべき、信仰者としての十字架の重たさではないだろうか、そのことを思います。

イエスは今日、「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と告げておられる。そうおっしゃいます時、まさしく十字架の重たさを思わざるを得なかったのであります。ペテロはその十字架の重たさを軽さへと変更しようとしたのではないか。わたくしはこの聖書の箇所を読みながらそのように思いました。イエス様が、自分は十字架にかかって死ぬ、やがて三日目によみがえる、そういうことをおっしゃいました時、ペテロは「主よ、とんでもないことです」と言っている。ペテロはイエスを否定しようとした。イエス様のおっしゃられる御自分の有り様をペテロは受け入れずに、自分なりの有り様でイエスを見ようとしたのです。ですから、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってよいはずはありません」と彼は言うのです。そして、「イエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめた」と聖書にはあります。いわば、ペテロにとってイエスは、自分の意のままになる存在にしようとした。本来のイエスご自身が人々に示し給う姿ではなくて、ペテロのイエスを作ろうとしたと、このように受け取ることができるのであります。そして、自分なりにイエスを、わきへ引き寄せるほど、イエスを持ち運びやすくしようとしたのではないか。

けれどもイエスに従うということは徹底して、「イエスに従っている自分がいる」ということであります。それは、「わたしのイエス」ではなくて「イエスのわたし」になっていくことだ、こういうふうに申し上げてもよいと思います。「ペテロのイエス」ではなくて「イエスのぺテロ」になっていくことだ。そのことがイエスに従っていくことだ、そのように思います。そして、自分が歩んでいる道はイエスに従っていく道であります。イエスがすでに歩んでいてくださる道をわたしは歩んでいる。それがイエスに従うことであります。わたくしどもは決して「わたしの歩んでいる道にイエスを添わせて歩いている」わけではないのです。「イエスが歩んでいらっしゃる道をわたしもまた歩んでいる」。「わたしが歩んでいる道はすでにイエスが歩んでくださった道」そこを歩んでいるのです。そのことは、本当はですね、本当は「本当は自分はこの道を歩みたかった」「本当は自分はこうしたかった」ということを、どこかでふっきらないと歩めない道なのかも知れないと思うのです。

福音のために命を失う者

イエスが歩んでいらっしゃった道を歩んでいるということは楽ではないのです。むしろ、自分の歩むべき道を自分が歩んでいる方が楽です。そして、自分が歩んでいる道にイエスを添わせることの方が楽であります。ペテロが イエスをわきに引き寄せることの方がよりペテロにとってやさしいことであったように、わたくしどもがわたくしどもの歩みにイエスを添わせることの方が楽であります。なぜならば、「わたしがしようと思うこと、わたしがこう思うこと」をそこでは実現することができるからです。けれども、イエスに従う道は、わたしが実現することではない道を歩んでいるかも知れない。わたしがこうしようと思うことを許さない道かも知れないのです。ですから、自分の思いをどこかでふっきらないと歩めない道なのかも知れない。けれども、それは、イエスが歩み給うた道であります。イエスの足跡にわたしの足を重ねて歩んでいく、そういう道ですね。イエスに従うということの中には、必ずそうしたものが付きまとうている、ということをわたくしどもは否でも応でも知らされます。そのことが、十字架を負う重たさとなる、わたくしどもはそのように思わざるを得ないのであります。けれども、そのわたくしどものイエスに従うというわたくしどもの振る舞いの中にですね、普段の日常生活の中では味わえない、あるいは、自分の思いの中では決して出て来ないであろう奇想天外とも言えるようなことでありますとか、あるいは、これは不思議だ、と思うようなことが出てくるのですね。それはまさしく、恵みであります。

そういう恵みの体験をなさった方は多いんですね。最初の例えに戻りますならば、芳賀さんが神主さんのお祓いの中でですね、運転手さんにお話しをなさったことによって、運転手さんは「聖書とはこんなにおもしろいものか」ということを知ったんです。それは、思いもよらぬ出来事がそこで起こったのです。あるいは大林さんが御親戚に書状を送られたことの中で、クリスチャンがたくさん生まれてゆかれた。これはまさしく、思いもかけない神様の恵みであります。そうしたことが、自分の予想を超えたところで起こっている。十字架の重たさを感じ取る中で生じてゆくのであります。このことはまことに何ものにも代えがたい恵みの出来事、こういうふうに申し上げることができると思うのであります。

「福音のために自分の命を失う者はそれを救う」とイエス様はおっしゃいます。自分の命を失うということは大変重たいことであります。けれども、そのことを通して自分の命を救う者がある。これは恵みの出来事であります。日常的には決して体験できないようなことが、イエスに従うことの中で起こっていくという恵みのことに関してイエスはここで言葉を変えてわたくしどもに教えていてくださる、このように理解することができようかと思います。自分の思いの中でイエスをとらえうることの中には決して出て来ない何かであります。そうしたことをあらためて、わたくしども武蔵野教会の中で起こる、いわば重たい十字架を負う出来事と、こういうふうに申し上げてよいと思いますが、非常に強い決断がいる、そういう出来事を通してですね、その中にある豊かな恵みを受け取ることができるように思うのでございます。それは、思いがけずわたしどもの身の中に起こる恵みであります。おそらくは、そうしたことをここにいらっしゃる方々お一人おひとりが、なんらかの形で、今日常生活の中で体験をしていらっしゃる、受け取っていらっしゃることと思うものでございます。そしてその体験を得られた時、そうしたことへの喜びが自分の中に沸き上がった時はきっと、自分の道を歩んでいらっしゃらない、イエスに従う道を歩んでいらっしゃる、そのことがあらためて思い起こさせる時ではなかろうか、このように思うのであります。

祈り

お祈りいたします。

父なる御神様、わたくしどもは、思いもかけず、あなたの後ろに従う者とされているところの者でございます。そこにはあなたに従うことによって、自ら負う十字架の重さをひしひしと感じる時でもありますけれども、しかし、その重さを通してあなたはわたくしどもに豊かな恵みの賜物をお与えくださいます。そのことをまた、わたくしどものこの歩みの中で、与えられていますことを感謝をすることができますように。キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(1988年2月28日 四旬節第2主日礼拝説教
テープ起こし by 後藤直紀神学生、文責 by 大柴譲治)