「神は走り寄る」 永吉 穂高牧師

ルカ15:11-32

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先月から、私たちは四旬節の時を過ごしています。四旬節とは、灰の水曜日(今年は2月13日)から、主日の礼拝を除いた復活祭(イースター)までの40日間を表します。この期間に、ある人は「私はお酒を飲まない」と決心し、またある人は「私は甘いものを控えるわ」と、それぞれ普段の生活で楽しみとしているものを我慢する試みをします。たとえ小さな決心だとしても、主イエスが歩まれた苦しみを他人事とせず、自分の生活と結び付けて追体験するために我慢するのです。
この40日間は、主イエスが荒れ野で断食し、神から離れるよう誘惑を受けた日々と重ねられており、それと同時に、主イエスの生涯のクライマックス、伝道の旅の終わりに待ち受ける十字架の出来事を思い起こす時でもあります。クリスマスやペンテコステなど、教会の行事は幾つもありますが、私たちキリスト者にとって最も大切な記念の時は、この四旬節と復活祭であるイースターです。私たちが毎週の主日礼拝で与えられる福音は、このイエス・キリストの苦しみと十字架での死、そして復活があったからこそ輝き、私たちを力づけ支える力となるのです。
本日、私たちへと与えられた御言葉は、教会では有名な「放蕩息子」の物語です。十字架への道のりで苦しみを受けられた主イエスの歩みを思い起こしている今、主イエスは、主人と二人の息子の物語を通して、神の愛とはどのようなものであるのかを、私たちへと教えておられます。ご一緒に福音から聴いてまいりましょう。

皆さまはそれぞれに、これまでの人生で取り返しのできない失敗をしたことがお有りでしょうか。良かれと思って行ったこと、自分自身が正しいと思って行ったこと、また、欲に負けて行ってしまったことなど、その結果、自分自身で処理できる問題であれば良いですが、もし大切な人に深い傷を負わせてしまったならば・・・、これほど恐ろしいことはありません。肉体的な傷はもちろん、心に傷をつけてしまった場合も、痛みはなくなったとしてもその傷は残り続けます。一度崩れてしまった関係が修復されることは難しいことを、私たちは知っています。「そんなはずじゃなかった。あの時はおかしかった」。そのような言葉は空しく、喉の奥に引っかかったまま、飲み込むほかありません。しかしながら、気をつけていても、生きている限り誰しもがそのような状況に陥ってしまうのです。
「つまづきは避けられない」との主イエスの御言葉を思い起こします。
その意味でも、主イエスが語る「放蕩息子」の物語は、実感を伴って響いてきます。

父とその二人の息子。父は主なる神であり、息子とは私たち人間のことを指しています。
ある時、二人の息子の内、弟が父へと財産の分け前をねだりました。そこで、父は兄と弟へと半分ずつ財産を手渡します。弟はすべての財産をお金に代えて遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしました。ところが、その地方に飢饉が来たとき、彼は誰にも助けてもらえなくなったのです。お金によって繋がった関係ほど脆いものはありません。ついには、豚の世話をするまでに、生活は苦しくなっていきました。
すべての希望の光が消え失せようとしていたそのとき、弟は父の豊かさを思い出しました。望む前から必要なものは与えられ、これまで生きてくることができたこと。自己中心的な願いにもかかわらず、自分の分の財産を惜しむことなく手渡してくれたこと。すべてを失ったときに、はじめてこれまでどれほど恵まれていたのかを弟は知ったのです。

もはや、生きていくために残された道は一つだけです。彼は、息子と呼ばれる資格がなくとも、父のもとに居たいと願ったのです。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(15:18-19)。
きっと弟は、父から拒否される覚悟もしていたことでしょう。その足取りの重さは想像も及びません。

しかし、弟のいだいていたそれらの思いとは異なり、父はまだ遠く離れていたのに走り寄り、一つの言葉も発する前に彼を強く抱きしめたのです。叱責するどころか跡取りの儀式のように手厚く迎え、その帰りを心から喜びました。
これほどまでに、大切に想われていたにもかかわらず、その父の思いにすら気づけず、むしろその愛を踏みにじりってしまったことを、弟は後悔したことでしょう。
けれども、赦されるだけにとどまらず、再び息子として生きる道が与えられたのです。この父の姿が、「赦してください」という言葉を飲み込み、むしろ痛む心で「雇い人の一人にしてください」と語った息子にとって、どれほどの慰めなったことでしょう。しかも、主人としてではなく、彼の父として心から愛しているという、たった一つの理由のみで、です。
これこそ、私たちへと注がれる父なる神・主なる神の深い愛にほかなりません。

私は、以前大切な人を裏切ってしまったことがあります。信じ続けてくださっていたその方の思いには気づかず、自分の思いだけで行動してしまった結果、その方から深く傷ついた、と告げられたのです。その方は、涙を流しながら「お前は本当に馬鹿だ。なぜ、そんなことをしたのか」と、歯を食いしばって語られました。私はその方の涙を見たときに初めて、取り返しのつかない事をしてしまったのだと気づきました。
「大切な人を失ってしまった。もう赦されないだろう。なぜ、こうなる前に気づけなかったのだろう」。さまざまな思いが浮かんできましたが、もはや事実は消せません。どうすることもできぬまま、その沈黙の中で後悔に身を浸すことしかできませんでした。
しかし、その方はおっしゃいました。「お前は嘘をついたのかもしれない。俺を騙そうとしたのかもしれない。俺には分からない。でも、俺はお前を信じている。信じている。」
私が手渡したのは、裏切りでした。しかし、その方は私を大切に思う気持ちというただ一点において、赦し、信じてくださったのです。そのとき、初めて真に赦されることを知り、号泣しました。その方を通して、神さまの愛と赦しを知らされたのです。

大柴先生は、よく「人の価値はdoingではなくbeingだ」と言われます。何かができるからではなく、私たちの存在そのものに価値があるという意味です。私たちの信じる神さまは、私たちの存在そのものを喜び、愛してくださる方です。だからこそ、負い目や罪をかかえている私たちを見つけ、走り寄ってその御手に抱きとめてくださるのです。それは、決して私たちの側の努力によるものではないのです。

他者に言えない醜い自分というものは、誰しもの心の中に存在するものであろうと思います。それが見えないように、心に鎧をつけたり、仮面を被って生きることもあります。本当の自分はちっぽけで、決して胸を張って自慢できるようなものではないからです。けれども、私たちが隠そうとしている自分の醜さを全てご存知の上で、主は私たちを生かしてくださっています。何か能力があるからでも、誰かの役に立つからでも、地位や名誉があるからでもなく、私たちを愛するがゆえに、一回一回のこの鼓動を打たせ続けておられます。

私たちは知っておきたいのです。弟の戸惑いとは異なり、父は祝宴をひらかれたのだということを。決して、弟自身が頼んだわけではありません。放蕩息子が帰ってきたことは、父自身の大きな喜びだったのです。
私たちが主に見出され、救いが与えられること以上の喜びが、私たちを見つけ出された主御自身にあります。私たちがどう生きているか、何ができるかということにかかわらず、私たちが主と共に歩む者としてここに存在することで、天は喜びに満たされます。たとえ、老いや病によって出来ることが少なくなって行くとしても、主の喜びは決して色あせることはないのです。

父によって赦され、受け入れられ、後悔を拭われた弟は、この後どのように生きたのでしょうか。また、主と出会った私たちの人生は、どのように変化していくのでしょうか。実感した愛は、決して消えることはなく、私たちの人生に輝き続けるのです。

受難節は主の苦しみを思い起こすときです。しかし、その苦しみの奥に示された愛を私たちは知っています。イースターへの歩みの中で、私たちの存在そのものを喜ばれる主の愛に、身をゆだねたいと願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン