説教 「白く輝く姿」 大柴 譲治

マルコ福音書 9: 2ー 9

はじめに

ひと月ぶりにこの説教台に立っています。突然の網膜剥離は、天から与えられた神さまからの休暇命令だったと思います。むさしのだよりにも経緯と感謝の言葉を書かせていただきましたが、大筋の方向はこのままでいいから、少しペースをスローダウンしなさいということだったのでしょう。このように再び、ここに立つことができることの恵みを心から感謝します。

主の変容主日

さて、本日は顕現節の最終主日で、「主の変容(または変貌)主日」と呼ばれる主日です。英語では “The Transfiguration of Our Lord” となります。高い山の上で、主イエスの姿が変わり、 「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と記されています。預言者を代表するエリヤが律法を代表するモーセと共に現れてイエスと語り合っていたとありますが、それは旧約聖書のいにしえより神さまのご計画のうちに置かれていた救いがイエスにおいて成就することを表していましょう。弟子たちは非常に大きな恐れに捉えられて、モーセは「三人を礼拝するための小屋を作りましょう」と思わず口走ります。「雲」は神さまのご臨在、顕現を表すしるしです。その雲の中から声がする。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。神さまのゴーサインです。しかもその声は、ここではイエスさまの周りにいた弟子たちに向かって発せられている。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。

この主の変容の出来事を解く鍵は、本日の日課の一番最後の主の言葉にあります。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と主は弟子たちに口止めされる。「人の子」とはイエスさまご自身のこと。復活するまではこの変容の出来事は秘密にされなければならないとされています。なぜか。栄光の姿は十字架の惨めさと苦難の中に隠されなければならなかったからです。そこでは、この変容の出来事は十字架と復活と分かちがたく結びついているということを告げているのです。

この出来事は、マルコ8章から見ますと、盲人の癒し、ペトロのキリスト告白、主の最初の受難予告に続いて記されています。この変容の後、汚れた霊につかれた子供の癒し、そして二度目の受難予告と続きます。今週の水曜日は「聖灰水曜日」と呼ばれ、四旬節(レント)と呼ばれる受難の前の期節に入ります。十字架と復活の出来事が私たちにとってどのような意味を持つのかということを深く覚える時期に入ります。主の変容の出来事、白く輝く姿は私たちにとってどのような意味を持っているのかということが本日のテーマです。

個人的な体験から~存在の白い輝き

このたび、網膜剥離のための緊急入院と緊急手術という体験を通して、多くの方々からの心のこもったお見舞いやカードをいただき、改めて人と人とのつながりのありがたさを身に沁みて感じました。いくつものお見舞いカードをいただきましたが、田中るねさんからいただいたお見舞いのカードの中に、「視力を失って何が見えましたか?無理をせずに!!」という言葉がありました。なかなかうまいこと書かれている。ご自身も昨年4ヶ月という長い入院生活を送られた、そのような体験から出た言葉でもありましょう。

私にとって眼の手術の後に見えたものは、私の周囲にいた人たちが不思議な白い光を伴って輝いて見えたということです。もしかしたら手術のショックもあったのかも知れませんが、それ以上に、自分のような小さな者のために皆が一生懸命に働いて支えてくださっている、そのことに対するありがたさが周りの人を輝かせて見せたのでしょうか。あるいは、人と人とのつながりがかけがえのないものとして輝いて見えたのでしょうか。または、自分が今、ここに生かされているということがいとおしく感じられたからでしょうか。手術の直後、ちょうど部屋に戻ったところに川上さんがお見舞いにきてくださったのですが、私は声も出せず、眼も開けられず、ただ右手を少し上げただけでした。川上さんの声も、何かとても懐かしい「天使の声」に聴こえたようにも思えました。

『むさしのだより』の巻頭言に「存在の白い輝き」と題してこう書かせていただきました。

いったいあれは何だったのだろうか。私を取り巻いているすべての人が白く輝いて見えるのだ。看護婦さんが「白衣の天使」に見えるだけではない。お医者さんも患者さんも、お茶くみのおばさんも掃除のお兄さんも、付き添いの家族も見舞客も、すべてが天使のように見えた。あれは幻影だったのだろうか。眼の手術を受けた直後、およそ一日の間、すべての人が白く輝いて見えた。まことに不思議な体験だった。

主の愛の輝き

山上の変貌の出来事の中ではイエスさまの姿が白く輝く様が記されていました。これは私たちにとって何を意味するのか。

それは主イエス・キリストによって、私たちもまたこのような命の輝き、存在の輝きに与るものとされるということを意味しているのだと思います。「これはわたしの愛する子。これに聞け」という天からの声が示すように、私たちが自分の無力さの中で、主の言葉に耳を傾け、思いを向けるとき、そしてキリストを救い主として信じ、キリストに服従してゆくときに、私たちには不思議な命の輝きが見えてくるという次元が備えられるのではないか。ペトロたちに主の姿が輝いて見えたということは、その輝きの前で同時に、彼らが自分自身の有限性、はかなさ、無力さといったものを徹底的に知らされたということではないかと私には思えてなりません。

病気になる、あるいは事故などで突然入院するということは、幼子のような弱い立場に置かれるということでもあります。自分の無力さに歯がゆい思いをすることもあるでしょう。そこでは自分で自分を支えることができなくなる。自立した存在であることができなくなる。多くの人々のお世話にならざるを得ないことを自覚する。自分が何の役にも立っていない、周りに迷惑ばかりかけている、恥ずかしい存在でしかないということをはっきりと自覚させられる。以前に「Do から Be へ」というテレビのコマーシャルがあったことをお話ししたことがありますが、行為 Doing という次元では何もできない無力な存在でしかない自分です。しかし Being 存在という次元においては確かに今、ここにこうして呼吸して生きている自分がいる。

しかし、そのような無力さの中で、そのような惨めさの中で響いてくる神さまの言葉がある。「どこまでもあなたの命、存在そのものをわたしは大切に思っているよ」という、I love you という声が響く。これは最も低い立場、弱い立場にあるときにだけ見えてくる現実のようであります。私自身、体力が回復すると共に、周囲の白い輝きは見えなくなってゆきました。不思議な体験でした。最も弱いときにだけ見える神の恩寵の世界がある。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」とヘブライ書11:1にありますが、神への信仰は自分自身の無力さ、無価値さを知る中で与えられる。「わたしは弱いときにこそ強い」と言い切ったパウロの言葉が改めて身近に感じられました。

宣教師のテレルボ・クーシランタさんがくださったフィンランドの傷ついた天使のカードにはイザヤ書43章のはじめの言葉が記されていました。こういう言葉です。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず
炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神
イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
わたしはエジプトをあなたの身代金とし
クシュとセバをあなたの代償とする。
わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる」   (イザヤ43:1-5)。

小さき者、弱き者を招くために主は私たちのもとに来てくださった。「すべて重荷を負うて苦しんでいる者はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。そこでは、「これはあなたのために与えられるわたしのからだである」「これはあなたの罪の赦しのために流されるわたしの血における新しい契約である」というキリストの言葉が響きます。「わたしの目にあなたは価高く、貴い!」と主は告げてくださっているのです。

「これはわたしの愛する子、これに聞け」という天からの声が指し示すように、私たちがどのような時にも耳を傾けるべきお方はただお一人、私たちのためにご自身のすべてをあの十字架の上で与えてくださった主イエス・キリストです。そしてこのお方の言葉を信じるとき私たちは、主イエスが山の上で神の栄光を表して白く輝かれたように、自分の無力さの中で不思議な信仰の輝き、存在の輝きに与ることを許されるのだと思います。これは生と死を越えた輝きです。死の力によっても何ものによっても奪われることのない神の永遠の命の輝き、復活の輝きです。聖餐式において私たちは、白く輝く栄光の主イエス・キリストからそのような揺るぎない祝福をいただき、その姿に与る者とされているという恵みを味わい知るのです。

この新しい一週間のお一人おひとりの歩みの上に、神さまの祝福が豊かにありますように。悲しみや苦しみ、行き詰まりや死の床にある者たちに、揺るぐことのないキリストの平安がありますように。 アーメン。

(2000年 3月 5日  主の変容主日聖餐礼拝)