説教 「歓声が罵声に変わっても」  松岡俊一郎牧師

マルコによる福音書 11:1ー11

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

人間の期待

私たちは願いや期待がかなえられるとき、喜びや満足を感じます。そしてそのときが幸せなことと思います。しかし、私たちの願いや期待がかなえられたら、その次の瞬間、私たちには新たな願いや希望、期待が生まれてきます。思いや欲望は際限なく膨らんでいき、その意味で完全に満たされる幸せはいつになってもつかむことが出来ません。いつも不足があり、不満足があり、幸せの一歩手前だからです。それでは完全な幸せはいったいどこにあるのでしょうか。

今日は枝の主日、棕櫚主日です。福音書の日課が示すイエス様がエルサレムに入られたときの記事に目を留めたいと思います。

イエス様の一行がエルサレムに近づかれたとき、イエス様は二人の弟子に「向こうの村に行きなさい。村にはいるとすぐ、誰も乗ったことのない子ロバのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れてきなさい。もし誰かが『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と、言われました。弟子達が行くと、はたしてその通りになりました。そしてそのロバを連れていき、ロバの背に自分たちの服をかけ、イエス様に乗っていただいたのです。

このようにしてエルサレムに入って来られたイエス様を、人々は歓声もって迎えました。ある者は自分の服を道に敷き、ある者は棕櫚の葉を振りかざしながら、喜びと興奮をもって迎えたのです。それは彼らがイエス様に、ローマの支配から自分たちを自由にする革命家としての働きを期待したからでした。イスラエルは旧約聖書に繰り返し解放されると預言が書かれているにもかかわらず、ユダヤ民族は選ばれた民と約束されているにもかかわらず、長い間様々な国によって支配し続けられていたからです。その苦悩のゆえに、少しでも力のある人、特別な人を見つけだすと、この人こそ自分たちを、支配者と闘い苦悩から救い出してくれると信じたのです。しかしそれにしても変です。もし強い革命家を期待するならば、英雄であるならば、どうしてロバ、それも子供のロバなのでしょうか。民衆はそのことには、気づきません。そんなことはどうでもいいのです。彼らにとって大切なことは、自分たちを解放してくれる、自分たちの期待に応えてくれるそれだけで充分なのです。そのための歓迎であり、そのための歓声なのです。

ロバに乗った王

この場所オリーブ山沿いのベトファゲ、ここはエルサレムの城壁のすぐ脇です。何も今更乗り物を必要とする場所ではありません。しかしイエス様はあえて重い荷物を黙々と耐えながら運ぶロバを選ばれます。世の権力者達が勇ましい軍馬を求め、これ見よがしに華麗さを表す白馬を求めるのとは対照的に、イエス様は小さく、弱々しく、時には愚かとさえ思われるロバを求められます。イエス様がロバを求められた理由は、ゼカリア書9:9-10に書かれている平和の君としての姿を証しするためでした。

「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」

救い主が平和の君として人々の所に来られる。それも人がイメージする優雅さや力強さをもってではなく、柔和で、弱い姿で、貧しい姿をとってこられるのです。神様は戦車や、軍馬、弓などの闘いの道具を用いた力で人々を支配されるのではなく、悩む者、悲しむ者、弱い者、貧しい者、虐げられた者、苦しむ者と共に生き、それらを引き受ける愛をもって支配されるからです。ここにイエス様がロバに乗って来られた意味があるのです。

イエス様には自分を革命家として歓迎してもらう気持ちは更々ありませんでした。イエス様が望まれたことはご自身によって神様の本当の愛の支配が始まり、これこそが人にとって真実の救いであり、これを信じることが完全な幸せの始まりであることを証ししたかったからでした。力はその瞬間、あるいはその時代にはすべてのものを制圧し、支配します。しかし、次の瞬間、次の時代には新たな力が起こり、今までの支配と栄華は見る影もないのです。私たちは今日の戦争においてそのことをまざまざと見せつけられています。まさにそれは私たちの欲望の姿でもあります。

愛による支配は、弱く、その瞬間瞬間は全く力をもたないように思えます。しかし、愛による支配こそが、時代を超えて、普遍的に人々を救いと喜びへと導くのです。人の心に本当に必要なもの、人を人として生かすもの、人と人との間に平和をもたらすもの、それが愛だからです。民衆はそれに気が付きません。歴史の中で、次々に列国に支配されながらも、力のむなしさを目にしながらも、新たな力にすがろうとしたのです。イエス様にも力による解放を期待したのです。

歓声が罵声に変わっても

しかしこの人々の期待は裏切られます。イエス様はそのような方としてはおいでにならなかったからです。そして彼らは自分たちの期待がかなえられないと知ったとたんに失望し、態度を翻し、イエス様を歓迎するその叫びは、十字架につけよとの罵声に変わっていくのです。ここに人の身勝手さを嘆かざるを得ません。

私たちは最近この瞬間をも目の当たりにしました。現在のイラク戦争のなかでアメリカがバクダットを陥落したと言う報道をつい先日目にしましたが、あれほどフセイン大統領を賛美し、彼のためなら死ぬと豪語していた国民が、一夜明けたらフセインを罵りアメリカを賞賛しているのです。確かにフセインの恐怖政治によって自由な発言が出来なかった、もし批判でもしようものなら処刑されてしまうという状態で、フセイン賛美以外の言葉が発せられなかったと言われていますからイラクの民衆をそのことで避難するつもりはありませんが、あの変わり様には人の心、人の本質のようなものを見せつけられました。

今日の日課においてイエス様がエルサレムに入場されるとき、人々はホサナと叫びつつ、イエス様を歓迎しました。しかし、イエス様が捕らえられ裁判にかけられた途端に、人々の声は「十字架につけよ」との声に変わっていくのです。まことに嘆かわしい人の姿であり、私たちの姿です。

しかし、歓声が罵声と変わるこの瞬間こそが、実は人々にとって救いの時であったのです。イエス様の願いは、ご自身が神の子として力をふるい、栄光を得るためではありませんでした。使徒書の日課が「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」と語るとおりです。

イエス様の十字架は人の罪の故に他なりませんでした。本来人は神様から愛され、人も神様を愛すべきであったにもかかわらず、人は神を神と思わず、自分自身を神とすることによって、その本来あるべき健全な関係を壊してしまったのです。つまり罪の責任は私たち人にあるのです。しかしイエス様は、人の罪、私たちの罪を糾弾することはされませんでした。罪の責任を私たちに求めることをなさいませんでした。それでは神様に対して罪を犯した人間にはその関係を回復する力がないからです。人の力では救いが実現しないからです。むしろイエス様はご自身を十字架にかけ、罪の赦しの犠牲の子羊として捧げ、人々がもう一度心から神様を信頼し深く結ばれ、そこから真実の喜びと平和を得ることを心から願われて、そのためには、どんなに人々の期待を裏切ろうとも、罵声を浴びようとも、身をもって救いの実現のためにささげられるのです。このイエス様の深い愛と真実があるからこそ、私たちも救いを得ることが出来るのです。イエス様の十字架の死による罪の赦しこそ、私たちにまことの平安と幸せをもたらすものです。

今週、私たちは受難週を過ごし、次週の日曜日には復活祭を迎えます。私たちもイエス様の十字架に込められたこの真実に気づき、求め続けたいと思います。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年4月13日 枝の主日礼拝説教)