説教 「軍馬に乗らない王」 大柴 譲治

マルコ福音書11: 1ー11

アドベント

先日、小平霊園で故根本静江姉の納骨式が行われた後に、ご親戚の一人の方がこうおっしゃっておられました。「叔母はいつも私たちに、『神の国は必ず来るのよ。これはあなたが信じようと信じまいと関係ないの。事実必ず来るのだから』と繰り返し言っていました。私はクリスチャンではないけれど、叔母が言ったことは本当だと思います」と。91年のご生涯をキリストのみ国に向かって走り抜かれた根本静江さんのひとすじな信仰を表していて、私にとってはたいへんに心に残るやりとりでした。

教会暦では今日からアドベント(待降節)に入りました。教会の暦では今日から新しい一年が始まります。典礼色は悔い改めの色であり、王の色でもある紫。クリスマスまでの4週間、私たちは主の御降誕と、主の再臨とを待ち望む時を過ごします。アドベントとはラテン語で Adventus から来ています。それはだんだん近づくこと、近づきつつあること、迫って来ることを意味する言葉で、「到来」とか「到着」、「接近」と訳される言葉です。その他、辞書を調べますと、「進出」とか「進軍」、「突発」とか「爆発」という意味もあるようです。

アドベントを「待降節」と訳すと、人間の側の待つことが強調されてしまいますが、しかしむしろ、向こう側から私たちへにどんどん迫ってくるということが強調されなければならないと思われます。(以前の「降臨節」という呼び方の方がアドベントという言葉の意味により近いと思われます。)そのどんどん迫ってくる救いの到来を私たちは待ち望むのです。洗礼者ヨハネや主イエス・キリストの宣教開始の言葉を思い起こします。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2、4:17)。私たちはこのアドベントの期節、身を正して神の国の近づいてくることを待ち望むのです。

<エルサレム入城>

本日与えられている福音は、主イエスのエルサレム入城の記事です。これは旧約聖書の預言の成就でした。ゼカリア書9:9ー10には次のように預言されています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」

イエスさまがロバの子に乗ってエルサレムに入ってゆかれる姿に民衆は、今こそイスラエルの王による平和(=救い)が実現するのだという大きな期待を抱いたのです。待ちに待った王の登場です。「ホサナ!主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」!群衆の熱狂的な叫び声が私たちにも聞こえてくるような気がします。何百年も待ち続けた救い主の到来、ダビデ王の再来です。

「ホサナ」とは詩編118:25にある「ホーシアンナー」(ああ、お助けください、お救いください)というヘブル語から来ています。(仮庵の祭において)この詩編が歌われたとき、この言葉が合図で棕櫚の枝を振ることになっていたようです。この詩編は大切なので少し見てみましょう(p957-8)。特に後半(19-29節)が大切です。

(19)正義の城門を開け、わたしは入って主に感謝しよう。
(20)これは主の城門、主に従う人々はここを入る。
(21)わたしはあなたに感謝をささげる、あなたは答え、救いを与えてくださった。

(22)家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。
(23)これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。
(24)今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
(25)どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。

(26)祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
(27)主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで、祭りのいけにえを綱でひいて行け。
(28)あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。

(29)恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。   (詩編118:19-29)

この詩編はエルサレムに巡礼する者たちが過越の祭の時に歌った感謝のハレルヤ(「ヤー・主をたたえよ」)詩編の一つです。主要部である19-29節は巡礼団とそれを迎える祭司の応答によって歌われたものでしょう。巡礼団の一行はこれを神殿の門の前で歌い(19-25節)、そして行列が神殿に入り祭壇まで進み、その周りを回る場面が描かれています(26-29節)。

つまり、イスラエルの王がエルサレムの神殿に入る、それを祭司が迎えるという詩編が今、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城しようとする時に歌われているのです。王が今や玉座にお着きになる!ゼカリアが預言したようにロバに乗った柔和な王が平和を打ち立てるためにエルサレムに入城される!群衆は熱狂的にイエスを迎え入れます。エルサレムの神殿からはオリーブ山から降りてくる巡礼団の熱狂的な興奮が、目に見える形で、怒濤のように伝わっていったと思われます。

「エルサレム」「ベトファゲ」「ベタニア」

本日の福音書の日課には、「エルサレム」「ベトファゲ」「ベタニア」という三つの地名が記されています。それぞれ意味深い地名です。「エルサレム」という語義には諸説がありますが、どうやら「平和を立てる」という意味であるらしい。エルサレムは「サレム」という名前で創世記14:18に登場しています。そこではサレムはアブラムを祝福した王メルキゼデクの町であり、「いと高き神」を礼拝する祭儀の町であったことが分かります。それに対して「ベタニア」は、「悩む者、貧しい者の家」という意味の名前で、エルサレムの南東約3キロに位置するオリブ山にある小さな村です。そこにはマリヤとマルタの姉妹が住んでいて、そしてイエスはその兄弟ラザロをよみがえらせたことがヨハネ11章には記されています。イエスはエルサレムにおける最後の一週間、このベタニアに滞在しました。棕櫚の日の行進はこのベタニアから始まったのですが、イエスはエルサレムで神殿の境内に入り、あたりの様子を見て回った後、夕方に再びベタニアに戻られました。「ベトファゲ」は「イチジクの家」という意味の名で、エルサレム近郊、オリーブ山の東側、ベタニアの北にある村です。この町の名前は、エルサレム入城の後に主がイチジクの木を呪い、その木が枯れていたことと結びついていましょう。このベトファゲで子ロバが調達されたと考えられます。

軍馬に乗らない王

熱狂的に叫ぶ民衆の期待はあっけなく裏切られてゆきます。神に立てられた王だと思ったイエスは全くもって無力でした。イスラエルをローマ帝国から解放しないばかりか、エルサレムでは力ある業を何もなされない。それどころか、神殿でむちゃくちゃに大暴れして商人たちを追い出したり、祭司長、律法学者、長老たち、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派など、イスラエルの指導者階級を徹底的に批判非難したりした。最後はエルサレム神殿の崩壊を預言したりして、全く王としての救いの業を行おうとしない。「イエスは本物の王ではない。あいつは偽物だ」。人々はそう思ったに違いありません。

民衆の失望はすぐさま怒りへと変わってゆきました。ホサナと叫んだその同じ口で、彼らはやがてイエスを十字架につけろと叫び始めるのです(マルコ15:6-15)。そしてイエスは十字架にかけられてあっけなく殺されてゆきます。ジ・エンドです。すべては何事もなかったかのように元に戻ってゆきました。イエスなど存在しなかったかのように。一つの石が水に投げられると波紋が生じますが、すぐさまその波紋も消えていってしまうのと同じように。しかし私たちは知っています。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」ということを。人間の思いを遙かに越えるような仕方で、十字架の無力さと惨めさ、辱めにおいて神の救いのみ業が成し遂げられたことを。何も起こらなかった、何も変わらなかったように見えるまさにその場所で、神の救いのご計画が成し遂げられたということを。

主イエスが力強い軍馬にではなく、弱々しい子ロバに乗ってエルサレムに入ってゆかれたということがすべてを暗示しています。ユダヤの伝承ではロバはウシと並んで大切な財産の一つですが、特にロバの平和な性質が強調されています。前述のゼカリア9:9でも、「高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」とありました。しかしロバにはもっと重要な意味があるようです。旧約の規定によると、家畜の初子は神への犠牲として捧げられなければならないことになっていましたが、出エジプト13:13や34:20などによると、ロバだけは例外でした。ロバの代わりに子羊を持って贖われなければならなかった。ロバは献げ物にもならない価値の低い動物だったのです。馬は力の象徴であり、戦いのためにはそこに戦車がつけられました。王は通常馬に乗って凱旋するはずです。しかし主イエスは、力の象徴である軍馬ではなく、無力さと無価値さの象徴である子ロバに乗って「平和を打ち立てる」ために「エルサレム」に入ってゆかれるのです。この子ロバに乗った王様の玉座は十字架であり、その頭にいただく冠は茨の冠でした。

私たちはここで二つの聖句を思い起こします。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2:14-16)。

私たちに近づいてきてくださる王

私たちはこのアドベントの期間を、無力で無価値な子ロバに乗ったキリストの到来を私たちの心の中にお迎えする準備の時として過ごしたいと思います。エルサレムは悲しみや苦しみ、怒りや憎しみや争いが満ち満ちているこの世界を表しています。暴力の支配するこの世界に、主が全く無力な姿で十字架にかかるために来てくださった。しかしその十字架には、この世的な暴力や敵意、憎しみを木っ端みじんに粉砕するほどの神の力が隠されていた。憎しみの力は物事を破壊するだけですが、愛の力はたとえそれがどれほど無力に思えたとしても物事を造り出してゆきます。私たちの王は無力さの中に最高の力を秘めていたのです。

この力に捉えられるとき、私たちはパウロと共にこのように言うことができるのです。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並はずれて偉大な力が神のものであって、わたしたちからでたものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、うち倒されても滅ぼされない」のだと(2コリント4:7-9)。このような神の国が必ず来る。いや、私たちのただ中に既に来ている。根本静江姉が91年のご生涯を貫いて神の国の到来を確信し続けたように、私たちもまた、上からの力をいただいて神の国の到来を待ち望みたいのです。

お一人おひとりの上に神さまの力が豊かに注がれますように。 アーメン。

(1999年11月28日  待降節第1主日礼拝)