聖霊降臨後第七主日礼拝説教 「従順〜服従の第一歩」  大柴 譲治

詩編121、ルカによる福音書9:51-62

<はじめに>
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

<本日の主題詩編:121編>
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」

 毎週の主日礼拝には主題詩編が一つ定められています。教会手帳を見ますとその日の「主日聖書日課(ペリコーペ)」や「主日の祈り」と共に「讃美唱」が一つ選ばれていますが、讃美唱がその日の主題詩編なのです。本日の主題詩編は121編。今お読みした詩編です。詩編120-134編の15編は「巡礼の歌」と呼ばれ、121編も「都に上る歌」(都詣での歌)の一つです。ユダヤ人は過ぎ越しの祭りなどでエルサレムに巡礼する際に、巡礼団はこれらの詩編を歌いながら歩を進めてゆきました。この詩編121編は神への信頼を歌った詩編としてよく知られているものです。

 皆さんの中には山登りがお好きな方々もおられましょう。山々を見上げる時に私たちはその壮大な景色や大自然の美しさに圧倒され感動します。「わたしの助けはどこから来るのか。天地万物を造られた創造主なる神から必ず来るのだ」と詩人は歌います。Lift up my eyes! 「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す」のです(詩編19:2)。私は静岡で育ちましたから毎日どこかの時点で富士山の姿を探していました。大自然に目を向ける時、私たちはその壮大さの前に自分の小ささ、儚さ、空しさを感じます。しかしそれを造られた全能の創造主がこの小さな私に確かな助けを備えてくださる。私は作者のダイナミックな神への信頼を歌った詩に目を見開かれるような思いがいたします。この121編は「巡礼の歌」の一つと申しましたが、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」と言った時の「山々」とは「シオン」(エルサレム地方)の山々(丘)が意味されています。

<主ご自身の「覚悟」> 本日の福音書の日課には、新共同訳聖書では「弟子の覚悟」という小見出しがついていますが、むしろそこでは、十字架への歩みを決然として踏み出し始められた「主イエス・キリストご自身の覚悟」が強調されているように思われます。主がエルサレムに向かって十字架へと歩み出された。それは父なる神の御心への徹底した「従順」であり、「服従」でありました。「目を上げて、わたしは(シオンの)山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」と歌う詩編121編は、「神の都」と呼ばれたエルサレムのゴルゴダの丘に目を向けて、そこに向かってまっすぐに歩み始められたキリストご自身の祈りであり、思いでもあったのでしょう。

<「新しいエクソドス(出エジプト)」>
 本日の福音書はこう始まっています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9:51)。「天に上げられる時期」というのは「昇天」のことであり、主が「自分の地上での日々がいよいよ終わりに近づいている」ということを意識されたということです。「イエスはエルサレムに向かう決意を固められた」という表現では、「顏をしっかりと(ある方向に)据えて固定する/定める/向ける」という言葉が用いられています。まっすぐエルサレムに向かって顏を見据え、そこに向かって一直線に歩む主イエスの姿勢が強調されています。ペトロのキリスト告白、受難予告、山上の変貌と進む中で、主イエスが十字架への覚悟を決めて、それに顔を向けての具体的な歩みを決然と踏み出し始められたのです。

 山上の変貌の出来事の中で主は、律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤと共に「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期のこと(エクソドス)」をまばゆく輝く栄光の姿の中で話し合われました(9:31)。この「エクソドス」という語はルカだけが記録している言葉ですが、「エクス・ホドス」=「出てゆくための道」という語で「突破口」「脱出路」を意味します。Exodusという言葉に即『出エジプト記』を想起される方もおられましょう。それは英語聖書ではExodus(脱出路)と呼ばれているからです。ルカは、モーセとエリヤとイエスが「最期のこと(エクソドス)」を話し合うという表現で、エルサレムでの十字架の出来事が私たちにとっての「新しい出エジプト」であり、永遠の生命への突破口であり、脱出路であることをはっきりと明示しているのです。

 サマリア人の村で歓迎されないという出来事が続いて起こります。それは、ガリラヤからユダヤのエルサレムに「一直線」に向かう途上で起こった出来事でした。ユダヤ人とサマリア人は近親憎悪のような、なかなか難しい関係にありました。彼らはもともと同族でしたが、サマリア人はイスラエルの北王国が紀元前722年にアッシリアに滅ぼされた後にその地方の民族と混血し、宗教的にも民族的にも文化的にもその土地の影響を受けた人々でした。通常ユダヤ人たちはガリラヤからエルサレムに向かう時、サマリア地方を通ることは避けていたようです。いったんヨルダン川の東側に渡って南にくだっていたのです。
イエスさまはガリラヤ地方を「まっすぐに」通ってエルサレムを目指されました。それはエルサレムで起こる十字架の出来事が、ユダヤ人のみならずサマリア人を含め、すべての人の救いのためであったということを表しているのかもしれません。詩編121編の通り、主はまっすぐにシオンの山々に向かって目を上げておられます。「わが助けは神から来る。天地を造られた主のもとから」なのです。

<「弟子たちの『力あるメシア』理解」をいさめた主イエス>
 このサマリアでの出来事はまた、弟子たちのメシアについての無理解、誤ったメシア像の投影として読み取ることもできましょう。「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた」(9:54-55)。ここでヤコブとヨハネとは、イエスとその一行に対して物質的支援を拒絶するサマリア人を、「神の人」エリヤが天からの火をもってアハズヤ王の部下たちを滅ぼしたように(列王紀下1:10-11)、殺そうとしているのです。それは仇を受けた敵に対して復讐しようとする姿です。

 しかしこの部分(55節)には、ある写本とウルガタ(ラテン語訳聖書)を見ると次のような補足が付いています。「そして(イエスは)言われた、あなたがたは霊(プネウマ)の性質を知らないのか。人の子は人の命(プシュケー)を滅ぼすためではなく、救うために来たのだ」。 

 聖書註解者のウィリアム・バークレーは、このイエスの「寛容」に関して次のようなリンカーンの言葉を引いています。「アブラハム・リンカーンが敵に対して紳士的すぎると批判され、『彼らを抹殺することこそ義務だ』と促された時、彼はその批判に、かの偉大な答えをもって対決した。『友人にしようとしているわたしの敵を、どうして殺すことができようか』。誰かが徹底的に間違っていようとも、その人を、抹殺すべき敵とせず、愛によって回復されるべき迷える友と見なすべきである」(バークレー新約注解ルカ福音書、p146)。

 弟子たちがイエス・キリストに期待していたのは、敵を武力を持って蹴散らす「力あるメシア像」だったのです。天からの火で敵を滅ぼした神の人エリヤのようなメシア像です。しかし神が派遣したのは、無力なまま裏切られ、見捨てられ、十字架で殺されるメシアでした。力による支配を貫く軍馬に乗った「力強いメシア」ではなく、愛による支配を求めるロバの子に乗った「柔和なメシア」が、今やエルサレムに向かって顏を向け、「最期のこと」「新しい出エジプト」(エクソドス)を遂げるために進み出しているのです。神のなさることは人の目には実に不思議に見えます。神は十字架の上に死んだ御子イエスを三日目に死人の中から甦らされた。死のただ中に復活の命が与えられ、絶望の暗黒の中に希望の光が与えられたのです。新しいExodusです。シオンの山々に目をあげ、天地を造られた神の御心に従順に、服従の第一歩を踏み出された主イエス・キリスト。私たちの救いはこのお方から来るのです。

<自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、キリストに従う>
 神と等しい身分であられたキリストが、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたのです。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで「従順」でした(フィリピ2章)。主は言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:23)。「自分を捨て、自分の十字架を背負って主に従う」とは、そのような御子ご自身の、神の御心に徹底して服従された「自己無化、へりくだり、従順」にならうということです。シオンの山々に向かって目を上げて、まっすぐに神の平和の都エルサレムを目指した主イエス。その玉座はゴルゴダの丘に立つ十字架であり、その冠は茨の冠であり、王なるキリストを迎えたのは侮蔑と嘲笑とにまみれた讃美でした。このキリストの従順、服従が私たちに救いの突破口(エクソドス)を開いてくれた。私たちの服従の第一歩は、それぞれの生活の持ち場において、このキリストに従って踏み出すことです。キリストにまねび、キリストにならいて、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、キリストに従うことです。私たちは本日、み言葉を通して、主が私たちによびかけてくださっておられ、その御声にどう服従してゆくかという、私たち自身の「主に服従する覚悟」を問われているのだと思います。

 最初に向こう側から私たちに向かって一つの声が発せられます。「わたしに従って来なさい」という主の呼びかけの声が。その声に私たちは服従してゆくのです。その従順の第一歩が私たち一人ひとりに求められている。私たち自身も、それぞれの持ち場で、具体的に、主のみ声に聴き従ってまいりたいと思います。
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」
 新しい一週間の上にも主が共にいまして、お一人おひとりを守り導いてくださいますようお祈りいたします。アーメン。

<おわりの祝福>
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。
(2013年7月14日主日礼拝説教)