マルコによる福音書 11:15-19
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。『ペテロの母』
スウェーデンの女流作家にセルマ・ラーゲルレーフ(Selma Ottiliana Lovisa Lagerloef, 1858~1940, 女性初のノーベル文学賞受賞者)という人がおりまして、この人がいろいろなキリストに関する伝説のようなものを題材にして短編集を書いております。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という短編小説をご存じかと思います。その原作になりました『ペテロの母』という小さな短編があります。これは、ラーゲルレーフによると、ペテロの母親というのは大変お金にうるさくて欲が深かったということを言っている本なのですね。べつにペテロのお母さんがそうであったかどうかわかりませんが、ラーゲルレーフはそういう設定をしているわけです。
ある時ペテロとイエス様とが天国に行きまして、天国の上から下界を見ているわけです。話しはずいぶん長いんですけれども簡単にいたしますと、ペテロが下界の様を見てさめざめと泣くわけですね。そして、自分はこうやってイエス様と一緒に天国に来て大変幸福である。しかし、自分の母親はその地上で大変苦しんでいるようだから、ぜひその母親を天国へ連れてきてほしいとイエス様にお願いをいたします。イエス様はその時にペテロに「なぜ、お前の母親が天国に来れないのかというと理由がある。お前の母親は大変お金にうるさくて欲が深いから天国に来れないのだ」とこういうふうにおっしゃるんですね。ペテロは「そんなことはない。あなたは必ず人をお救いになることだから、ぜひわたしと同じように天国へ母親を連れてきてほしい」と願うのです。そこで、イエスは天使を呼ばれまして、天使に命じて、「では、お前は下界へ下りて行って母親を迎えて来い」と申します。天使は羽を広げるないなや、矢のようにこの下界へ下ってまいりまして、ペテロの母親を迎えに行くのです。ペテロはしばらく下界を覗き込んでいますが、なかなか天使が上がってまいりません。しばらくしておりますと、天使がまた勢いよく下からスーッと母親をつれて昇って来るのであります。よく見るとその母親の肩と言わず腕と言わず足と言わず、大勢の人がしがみついているんですね。そうしたこの大勢の人たちがしがみついているにもかかわらず、天使は勢いよく天国に向かって激しく昇り上がって来るのです。そうしますと、ペテロの母親が途中で、自分にしがみついているその人間を全部振り落とすわけですね。どんどんと振り落としまして、人が下へ下へ落っこちるにしたがって天使はだんだん昇って来る力が弱くなってくる。そして、とうとう最後の一人が母親にしがみついておりますと、天使は喘ぎ喘ぎ昇って来るようになるんです。そして天使が喘ぎ喘ぎ上って来る途中に、最後に残った一人を母親が振り落としますと天使は力を失ってとうとう昇りきれなくなる。とうとう天使はペテロの母親を振りほどいて下りて行くのです。それを見てイエスがペテロにむかって言います。「お前はこの有り様を見たか?だからわたしが下界へ下りて行ったのだ。」
こういう話をラーゲルレーフは書いているのです。キリストは天国で待ち給うお方ではなくて、人間のこの罪の世界に自ら下りて行くお方である、ということをそこでラーゲルレーフは語っている。『ペテロの母』とはそういった小説なのですね。
今日、与えられました聖書の箇所は「宮清め」の聖書の箇所でありますが、こうした宮清めの聖書の箇所は、いわばそうした人間のこの「欲の深さ」と申しますか、人間が何でもお金にする、そういった世界のところにおいでになったイエス様の姿を描いている箇所です。しかも、そういうイエス様のお姿は、おそらくわたくしどもが想像できないほどのお姿であります。わたくしどもはむしろ、イエス様というお方を考えますと、物静かで、そして人々にゆっくりと諭しをされて、そして人々は胸にぐーっと迫るような感動を覚える、そういうお方としてイエスを思い描くに違いないのであります。しかし、聖書はそういう展開の仕方をわたくしどもにさせてくれませんで、荒々しくむちを振り上げるイエス様の姿を描き出すのですね。こういうこの怒れるイエス様の姿をわたくしどもが見ます時には驚きますし、あるいは、逆にイエス様の人間性というものを聖書は素朴に描いているというふうにも感心をしたりする、そういったことも思います。
両替人の視点からイエスを見ると
けれども、今日の箇所のところでは少しわたしたちは視点を変えて見てみたいのです。それは、イエスから怒りを向けられている両替人や鳩を売る人々はどうであったか、ということであります。わたくしどもがもしもここで自分が両替人であったら、もしも自分が鳩を売る人間であったらどうであるか、イエスの怒りをどういうふうに自分は受け止めるのか、というふうに考えてここを読みますと、また違った聖書のメッセージをわたくしどもは受け取ります。おそらくは、わたくしどもは、自分たちの理屈を持っているに違いないのです。べつに、自分たちがここで不当な利益を得て、金もうけをしようなどとは思っていない、というふうに言うかも知れません。実際そうです。この当時は神殿で得た利益は多くの公共事業に寄付をしたということが書いてありますから、必ずしも全部が全部自分のふところに入ったとは限らないわけであります。むしろ、神殿での礼拝が正しく行なわれるために手助けをしているのだ、こういうふうに思ったかも知れません。犠牲の動物たちは傷もシミもないものでなければならない、貧乏な人には鳩を売らなければならない。お金がないからですね。小さい動物で我慢をしてもらう。そういったこともありましたし、動物を選ぶについては傷もシミもない立派な動物を選ばなければならないと神殿の祭司たちの検閲に引っ掛かるわけですから、そういった犠牲の動物を売るんですね。あるいは、両替人というのは外国に長く生活している人たちは、ユダヤの銀貨でないと宮には捧げられませんでしたから、外国のお金をユダヤのこのお金に両替をする、そういう仕事をしておりまして、自分たちは長年にわたって培われた正しい神殿礼拝のあり方を守るためにこういう仕事をしているんだ、と考えて商売をしていたのかも知れません。つまり、自分たちのやっていることは少なくとも正しくやっている。そして、そのことによってすべてのことがうまく行く。そういうことを考えて彼らは商売をしているわけです。
そして少しばかり欲もくっついていますから、それを通して自分の生活が少しお金が貯まるといいと思っているかも知れません。いわば、すべては自分の側で自分たちに都合良くうまくいくように、というふうなことを考えてのことであります。そうしたことで自分たちのこの神殿での商売がうまく成り立っているわけであります。べつにそこでは、何かことに悪いことをしているだとか、何か後ろめたい思いをしているとか、そういったことはまったくないわけで、ごく通常の長年の習慣によってそうしているわけですし、そこでは正しい自分たちの有り様があると思っているわけであります。
しかし、事はあたかも怒り狂ったように彼らの上に襲い掛かってくるのです。人様のために善かれかしと願いながら、神殿の行事がうまくいくことを考えて自分たちはお膳立てをしている、そういうふうに思っているのに突如として両替の台がひっくり返されるのですね。そして、犠牲の動物たちはこれをもって出て行けと言われてしまう。突如として大きな、いわば「変化」が自分の上に起こるのであります。こんなことがあってはよいのか。自分たちはこれだけ忠実なことをしているのに、しきたりにしたがってこうやっているのに、みんなのことを考えてやっているのに、そういうふうにみんなは言うに違いないのであります。どうしてこんなことが起こってよかろうか。もはや、呆然と彼らは立ちすくむ以外にないようなところにおかれるのであります。
きっと、両替人とか鳩を売る人たちの立場から考えますと、きっとそうに違いないとわたくしどもは容易に想像することができます。これでうまくいった、これでよかった、と思ったときにですね、最後のところで怒り狂うイエスの怒りにふれていって追い出されてしまう、そういうことであります。ちょうど、ペテロの母親のようなもので、もう少しで天国へ届く、そして必死の思いで自分がこの天国へやってきたという最後のところで、天使から振り落とされるようなものであります。そういったことが、いわば両替人や鳩を売る立場の人たちから見るとですね、起こっているというふうに考えることができます。
私たち自身の心の宮清め
けれども、その時にわたしはあのイエスがペテロにおっしゃった言葉を思い起こす。「見たか。だからわたしは下へおりていく」というあの言葉です。呆然と立ちすくむ、どうしていいかわからないところに、そこにじつはイエスが来ていてくださるということがここでは起こっているということであります。下へおりておいでになったキリストがいます。地上のしきたりやそして地上の考え方の中でしか動くことができないし、そのようにしか考えることができないわたしたちに対して、と申し上げてよいでしょう。わたしたちに対してイエスは、「あなたの考え方はそうではないようにしなさい」「そうではなくて違ったことがここでは起こるというふうに考えなさい」と激しく悔い改めを迫り給う。そういうことがここでは示されているのであります。主の怒りとも見えるそういうもとで、人々は激しく悔い改めを求められている、そういうことであります。突如として起こった思いがけない、いわば「災い」とも見えることであります。そうしたことを通してそのことはもはやここでは違う方向へと展開しなければならない、ということが指し示されている。これがいわば「宮清め」であります。主ご自身により、いわばこれは「改革」とも言えることであります。そのことがここでは起こっているのですね。そしてそこで得る人々の新しい動きとはいったい何か。それはあの地上のエルサレムの神殿に彼らが何かをするというのではなくて、あのご自身を神殿とし給うキリスト、いわばそれは復活のキリストであります。その復活し給うたキリストご自身にふれて、キリストご自身から彼らが新しい生き方を示されるということであります。地上にある神殿に向かって自分の有り様の考え方や自分なりに考えたことで何かをするということではなくて、復活し給うたキリストご自身から指し示されて、復活し給うたキリストご自身にふれて、そこで新しいことを起こしていく。これがいわばわたしどもの心の中の宮清めが起こるということであります。
あたかもそれはキリストの怒りにふれたかのような形で起こっているのかも知れません。思いがけないことをして自分の中に起こっているのかも知れません。しかしその奥では、「あなたはそのような今までの有り様であってはならない」とおっしゃるキリストの声を聞くのであります。そして新しい有り様がキリストから示されている。
ある詩人がこういうことを詩っています。「いさおしをたてようと神に力を祈り求めたのに、謙遜に服従するように弱さを与えられた。より大きなことしようと健康を求めたのに、よりよいことをするように病気を与えられた。幸福になるようにと富を祈り求めたのに、賢くなるようにと貧しさを与えられた。人々の称賛を得ようと権力を祈り求めたのに、神の必要を感じるように無力を与えられた。人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを楽しむために人生を与えられた。祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに、じつはわたしが望んでいたものはすべて与えられた。わたしの祈りにもかかわらず、わたしの言葉にもならない祈りは答えられて、すべての人にまさってわたしはもっとも豊かな祝福を与えられたのだ」という、誰が書いたのかわかりませんがそういう詩があるのです。
功績を求めようとして力を求める、より大きなことをしようとして健康を求めること、幸福になるように富を求めることは、わたくしどもの通常の長年のしきたりであります。そのことを通してわたくしたちは決して悪いことをしているとは思いません。でもそのことがいつかは崩れることがある。思いがけなくそのことが費やされる日があるのであります。あたかもそれは、わたくしどもにとって「どうしてこういうことがおこるのですか」と言いたくなるようなことことでもあります。あたかもそれは主の怒りにふれたかのようなことであります。今ひとつというところで振り落とされるような思いであります。けれどもそのことを通して今や新しい有り様が示されているということをこの詩の作者は知っているのです。
ですから、謙遜に従うように力の代わりに弱さが与えられた、よりよいことをするように病気が与えられた、あるいは、賢くなるように貧乏が与えられた、神の必要を感じるように無力が与えられた、あらゆることを楽しむために人生が与えられた。いわば、すべてのことは逆転しているのです。そして逆転したことの中に、恵みを感じ取っているのですね。呆然と立ちすくむように、あたかも怒りを受けているような、どうしていいかわからないような、奈落の底に突き落とされるような最中で、恵みを発見している。そういう作者の詩であります。
しかし同時に、これは信仰の告白でもあります。宮清めとはわたくしどもに、そのような信仰の思いを怒りを通して主は教え給うということ知ることでもあろうかと思うのです。こうしてわたくしどもは改めて、金を散らされた両替人として、売り物の動物犠牲を持って出て行けと言われて呆然と立ちすくむあの鳩を売る人間のようになった時に、あらためて主ご自身から、そこにこそわたしはおり、わたしがあなたに与える恵みがある、このように示されていることを思うのであります。
祈り
お祈りいたします。仰ぎまつる父なる御神様。わたくしどもは、まことにわたくしどもの思いやわたくしどもの予想を超えたところであなたご自身がわたくしどもに豊かな恵みをお与えになります。病気や無力さやあるいは何一つ叶えられないことが、じつはあなたご自身の豊かな恵みでもあることをあなたは教えてくださいます。どうかそのことの中にいっそう豊かないっそう大きなあなたの愛をわたくしどもが受け止めることができますように。そしてわたくしどもに、もっとも豊かな祝福が与えられておりますことを感謝することができますように。キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(1988年3月6日 四旬節第3主日礼拝説教
テープ起こし by 後藤直紀神学生、文責 by 大柴譲治)