説教 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるため」 大柴 譲治


<はじめに>

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。


<「わたしが来たのは、地上に火を投ずるため」>

 本日の日課で主イエスは鋭く厳しい言葉を告げています。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。このような主の言葉を私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。つい二週間前に私たちは平和主日を守って「キリストこそ平和」というみ言葉を聴いたばかりなのですが、本日はそれと対極に響く言葉であるようにも感じます。主イエスがこの地上に投ぜられた「火」とは何かということが本日の主題です。

 ここで「火」とは何を意味するか。「火」また「炎」というものには一般に、①闇を明るく輝き照らし、②その炎は熱く、③それはすべてを燃やし尽くし、また④金属を精錬する、といったような働きがあるでしょう。そこからはキリストの「真理」こそが私たち人間の闇を照らし、その「燃えるような愛」こそが私たち人間に生きる力を与え、不真実なもの・不要なものをすべて燃やし尽くし、私たちを真の主にある信仰者として厳しく鍛錬してゆくということを意味しているのでしょうか。

<梅ヶ島ルーテルキャンプ場でのキャンプファイアー>

 この「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」という言葉を聴く度に私には思い起こされる場面があります。それは私自身の中に熱く燃える「キリストの火」が投ぜられた「原体験」のようなものだと思います。個人的な体験ですが少しお分かちさせて下さい。

 静岡市の山奥、安倍川の上流に「梅ヶ島」と呼ばれる温泉地があります。そこには長く「梅ヶ島ルーテルキャンプ場」がありました。そこに足を運ばれた方もおられるかもしれません。東海福音ルーテル教会/東海教区のスピリットはそこで培われたのでした。毎年CSキャンプや青年キャンプ、聖書キャンプ等が行われました。私はルーテル神大の学生になった時、1980年と81年の二回の夏をルーテルキャンプ場の村長として、他の青年ワーカーや神学生たちと共にそこで過ごしました。当時神学生だった立山忠浩先生や山田浩己先生も共に働きました。神学校の伊藤文雄先生に引き連れられて「聖書を読むキャンプ」を行ったのも梅ヶ島でした。東海福音ルーテル教会は1963年に旧日本福音ルーテル教会と合同して「東海教区」になってゆくのですが、梅ヶ島キャンプ場は多くの方の努力の中で長く維持されてゆきました。現在は売却されています。

 1975年、76年の夏に行われた青年キャンプは20歳を前にした私にとって忘れられない体験となりました。特にキャンプファイアーを囲んでの交わりと証しが印象に残っています。キャンプファイアーとか暖炉とか囲炉裏とか、バーベキューもそうかもしれませんが、火の周りに集まる時に私たちは特別な思いにさせられるのでしょう。「火を投じる」とは英語で ignite と言いまして、車のエンジンを点火する際の「イグニション」もここから来ていますが、私はこの梅ヶ島ルーテルキャンプ場の、満天の星空の下でのキャンプファイアーの前で感じた、薪のパチパチとはぜる音と炭火と煙の匂いのする静かで温かな、確かで満たされた時間と空間は忘れられない体験です。それは永遠なるお方のご臨在を感じた「永遠の今」とも呼ぶべき瞬間でもありました。「若き日に汝の造り主を覚えよ」とコヘレト12:1にありますが、そのような得難い体験をティーンズや青年たちは今もキャンプで体験し続けているのだろうと思います。皆さんにも同様の体験があるかもしれません。1976年の梅ヶ島での夏の出来事だったと思いますが、4年前に天に召された平岡正幸先生と私ともう一人の青年との三人でそのキャンプファイアーを前にして「俺たちは福音の伝道者になるぞ!」と熱く誓い合ったことを思い起こします。文字通り私たちはそこで火を投ぜられ、イグナイトされたのです。

 キャンプファイアーには「ファイアーキーパー」と呼ばれる火を管理する人がいるのですが、黙々とその人は組み上げた薪を2時間ほどの時間をかけて燃やし尽くしてゆきます。そのファイアーの最後に地面の上に残り火で十字架がくっきりと浮かび上がってきた時にはその神秘さに心の底から震撼させられました。種明かしをしますと、それは最初から地面に十字架を掘っておいて、その上に薪をくべてゆき、時間をかけて炭となって燃えて崩れてゆく炭火や燃えさしをその十字に切られた穴の中に落としてゆくのです。そして最後には十字架が浮かび上がってゆくように整えて行くのです。ファイアーキーパーの腕の見せ所でもあります。このしかけを知った時に私は別の意味で再度深く感動いたしました。そうか、私たちのためにキリストが十字架に架かってくださったというのは、私たちが気づく遙かに前から、生まれる遙かに前から、地面に十字架が掘られていたようなものなのだと思ったのです。私たちの命が燃えて行く中で、私たちが気づくかどうかということを超えて、最初から、私たちの存在を通して主の十字架が浮かび上がってくるように備えられているのに違いないと思わされたのでした。そしてその思いは、あれから37年ほどが経った今でも私の中には連綿と燃え続けているように思います。燃える柴の中にご自身を示された神は、「柴が燃え尽きない」ことを通して、ご自身のご臨在と恵みのみ業を示し続けておられるのでしょう。牧師となって行くためにはその後も紆余曲折があるのですが、私が向こう側から捉えられていることに気づかされた瞬間でもありました。

 おそらく皆さんにもこれまでの人生の中で、そのような霊的に高揚した瞬間があったのであろうと思います。キリストの十字架が私たちの中に投じる「火」というものがあるのだと思います。その火は、天から垂直に私たちの心を貫く「火」「聖霊の炎」であると同時に、私たちの拠って立つこの大地の中に刻み込まれている「十字架の愛の炎」でもあります。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」というイエスさまの声は、「このわたしが投ずる火によって生きよ」「この燃え尽きることのない神から投ぜられた炎の中に歩むのだ」というメッセージを私たちの魂の中に刻みつけて行くのです。


<それはキリストの「十字架の苦難(=洗礼)」によって投ぜられた「火」>

 主は「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」という言葉に続けてこう言われます。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と。主がここで「受けねばならない洗礼」と語っておられるのは、もちろん「ご自身の十字架の苦難と死」のことでしょう。それを最後まで担うことの中で主ご自身がどれほど苦しまれたことでしょうか。ゲッセマネの園では汗が血の滴るように地面に落ちるほど苦しみながら主は祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。また、十字架の上で主は大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です(マルコ15:34)。私たちを救い、私たちを生かすためにこの地上に投ぜられた「火」は、そのように主イエス・キリストの十字架の苦難と死とによって投ぜられた「火」なのでした。

 今ここで、私たちは今この瞬間にも、生と死を越えて、キリストが十字架を通して投じてくださった「火」に与っています。それは復活の命の火であり、神さまの永遠の命の火です。生きるにしても死ぬにしても、私たちは神さまのみ手の内にあるのです。神さまが常に私たちと共にいましたもうということ、神が私たちを見捨てることなく、私たちをしっかりとそのみ腕に抱いてくださっているという「インマヌエルの原事実」に目を開かれた時、パウロは1コリント10章で次のように言い得たのです。「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10:13-14)。火で精錬されるということは、本日の第一日課エレミヤ書23章に、「このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」という言葉があったように、神の命の言葉の前に立つということ、神の命の言葉を私たちの人生の揺るぐことのない土台とすることです。キリストの投じてくださった炎は、私たちを真理へと覚醒させ、真理に目覚めさせてくれる「火」でもあるのです。

 イエスさまが「わたしはこの地上に火を投ずるために来たのだ」と言われる時、すべてが揺らいでも決して揺らぐことのないただ一つのこと、それを明らかにするために来たのだと宣言されていると私は信じます。このような「火」を内に投ぜられた者は幸いです。それは神の生命の炎であり、神の愛の炎であります。それによって真実の愛が明らかとなるような火であり、私たちが真の喜びに生きる力を与えてくれる炎なのです。あのキャンプファイアーの後に十字架の炎が浮かび上がったように、私たちの存在を支える足場には最初から、二千年前から既に十字架が刻まれているのです。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と十字架に架かられる前に主イエスは言われました。キリストが十字架で勝利してくださった真実の炎が私たちにも注がれている。だからこそ、この世で突然の悲劇や苦難が私たちを襲っても、そしてその中でどんなに私たちが打ち倒され、滅ぼされように見えたとしても、孤独や孤立に苦しまなければならないとしても、主がこの地上に放って下さったみ言葉の炎のゆえに、私たちは決して望みを失うことはないのです。このことを覚えて新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に、キリストの慰めと支え、守りと導きが豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。


<おわりの祝福>

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2013年8月18日 聖霊降臨後第13主日礼拝説教)