「今がその時である」
ヨハネによる福音書で、イエスは3度エルサレムへ上京します。本日の4:1からはイエスが弟子たちと共に、エルサレムでの過ぎ越しの祭を終え、1度目のエルサレム上京から、ガリラヤに戻る道中のサマリアでの出来事です。本来ユダヤ人にとって、このサマリアという場所はあまり行かないようにしていた場所でした。4節で「サマリアを通らねばならなかった」とありますが、確かに地理的にはエルサレムからガリラヤに行くために、サマリアを通るのが一番の近道でありました。しかし当時のユダヤ人は、サマリア人との関係は良好ではなかった。むしろ、緊張関係にあったと言っても良いでしょう。サマリア人と呼ばれる人々は、紀元前722年に滅亡したイスラエル王国の生き残りの住民と、アッシリアからの入植者との混在の結果できた、所謂、混血民族であったのです。そのためユダヤ人から見るとサマリア人は、半分がユダヤ人ではないものの地が流れているということからも、なるべく近づかないようにしていた民族でありました。
ですから、エルサレムからサマリアを通ってガリラヤに行くという直線的な道は、当時のユダヤ人からすれば、一般に通る道ではありませんでした。サマリアの東にありますヨルダン川の方を通って、迂回しながら進む道が、通常であったのです。しかし、イエスは直線的な、一番近い道を行くために、サマリアを通りました。これは人間的な常識にとらわれない、イエスのひたすらに真っ直ぐな道が表れています。その真意はわかりませんが、サマリアに行かなければならなかった、と4:4にあるように、むしろ神の救いの御手を、異邦人にも表すために、その道を歩んだと考えることができます。
その道中、イエスはサマリアの女に出会うのです。そこでの会話は、イエスの語りかけから始まりました。サマリアの女はこの時、大変驚いたことでしょう。来るはずのないユダヤ人が、サマリアの、それも女性である私に語り掛ける。さらに6節に「正午ごろのことである」とありますが、当時の水汲みは、凉しい朝か夕方に行われることが普通であり、暑い盛りの正午の井戸に人がいるということすら想像していなかったでしょう。そんな驚きの中でイエスに語り掛けられるところから始まります。同時にそれは、救いの御手が差し伸べられた瞬間でもありました。その始まりはイエスの語りかけであった。先手はいつも神なのです。
イエスとサマリアの女の対話が7節以降に展開されていきます。水を求めるイエスに対して、サマリアの女は疑問を抱き、イエスの求めに、質問で返していく。しかしイエスは10節で、こう語ります「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と。ここで不思議なことに、求める者と、求められた者との立場が逆転しています。先ほどまで飲み水を求めていたイエスが、与えると言う立場になっているのです。
サマリアの女にとって、イエスの言う生きた水というのは、永遠に湧き出る、液体としての水を想像したのでしょう。永遠に喉の渇くことのないような、便利なものを想像したのでしょう。しかしイエスの言う水というのは、全く違ったものであります。それは肉体的な渇きを満たすものではなく、心の渇きを満たす、魂の渇きを満たす水であったのです。
イエスは気づいていたのでしょう。サマリアの女の、心の渇きを。16節以降にありますが、女は5人の夫がいたが、イエスと会話していた時には別の男性と連れ添っていた。女が自ら別れたのか、それとも死別など特別な事情があって別れたのかどうかは定かではありませんが、しかし結婚をもした男性と5回も別れを経験したという事実があるのです。最愛の人と5度も分かれる事態があったのです。それはどれほど、辛かったのでしょうか。明らかにこのサマリアの女は、不幸な人生を歩んできたのです。状況がどのようなものであろうとも、一度愛した人を失うというのは、辛くないわけがありません。
さらに女は正午ごろに水を汲みに来ていたと6節にありましたが、恐らくこれは人目に付きたくなかったために、人のいない正午ごろに水を汲みにきたのでしょう。5人の夫と別れた事で、さらに今は別の男性と連れ添っている事で、周囲からは非難されるような目で見られていた。そのように辛く、苦しい生活を、日々送っていたのです。それ故に、心に渇きをもっていたのです。しかしイエスはそのような女に対しても、何一つ変わることのない態度で話し続けます。それも16節で「あなたの夫をここに呼んできなさい」とまで言うのです。サマリアの女にとって一番触れられたくない、まさに痛いところを突然突かれるかのような言葉まで投げ掛けるのです。
それほどまでに、イエスはサマリアの女に、真摯に向き合ったのです。人の辛い過去を思い出させる一言は、言う人間もまた辛い事であります。悪戯に言える言葉でも、軽く言える言葉でもない。重たく辛い過去をもった人間に対して、その痛いところを突くイエスの態度は、ひたむきにサマリアの女を救おうとする、覚悟を持ったイエスの誠実な態度を見ることができるのです。
そのためイエスは、生きた水を与えると述べているのです。それも、決して渇くことのない生きた水、永遠の命に至る水が、湧き出ると述べているのです。それは、花に如雨露で水を与えるかのようなものではなく、生きた水が、心の内で泉となって、湧き出てくると言うのです。生きた水とはまさに、神の賜物であり、神の御言葉であり、イエス・キリストなのです。女にはイエスを通して慰めが与えられているのです。心の渇きを満たす水が、与えられているのです。重たく辛い過去を持つサマリアの女に対して、痛いところを突く言葉を掛けることを通して、イエスはその生きた水をもたらそうとしてくださるのです。女自身がここでちゃんと告白している、そしてイエスは受容している。まさにこれが、女にとって生きた水であるとすることもできるでしょう。
さらにイエスはその後の対話で、女は礼拝をどこで行うべきか、と問われる。そこで霊と真理をもった礼拝をするべきであると答えます。その時に、23節で「今がその時である」とイエスは述べるのです。サマリアの女に対する慰めが最深部に至った瞬間であります。サマリアの女はイエスの語りかけによって、救いを、生きた水を望む者として変えられました。そのサマリアの女に、イエスは今がその時であると述べるのです。昨年の流行語大賞の中に、林修の「今でしょ」という言葉が選ばれました。このイエスの言葉も同じように「今でしょ」と語り掛けるように考えられる一言でもあります。しかし、サマリアの女の状況を鑑みれば、「今がその時である」と語り掛けるイエスの言葉は、「今でしょ」という心を突き動かすような言葉とは違い、むしろ何よりもサマリアの女を受け入れる言葉になったのではないでしょうか。
5人の夫と別れ、今は別の男性と連れ添い、周囲から非難されるような目を向けられてきたサマリアの女には、少なからず自責の念も存在していたでしょう。そこに対するイエスのこの言葉が、どれほど温かみを持った言葉となったのでしょうか。罪人だからもう遅いと感じることもなく、未熟な私にはまだ早いと感じる必要もない、「今がその時である」という言葉は、「今で良いのだ」という、まさにイエスの深い慰めに満ちた言葉となるのではないでしょうか。ありのままで、今のままで、そのままで良いのだと語り掛ける、まさにイエスの慰めに満ちた一言であるのです。
こうしてサマリアの女は、見事に変えられていったのです。初めはイエスの問いかけに驚き、疑問を持ち、抗議的な態度すら見せていた女は、イエスの語りかけによって、次第に救いを求めるものに変えられていった。そしてイエスの慰めが最深部に及んだ時にサマリアの女は、まさに永遠の命に至る水が、泉となって湧き出た。神の真の愛を、与る者に変えられていったのです。
女の状況は何一つ変わっていません。周囲の非難的な目も、5人の夫と別れた過去も、今は別の男と連れ添っている事実も、何一つその環境は変わっていない。しかし、サマリアの女の心境は、イエス・キリストによって、劇的に変えられていったのです。そして、今日の箇所の後に続く39節では、町の人々に伝えていったのです。わき出た水があふれ出し、今度は周りの者をも満たす、永遠の命に至る、生きた水の泉として、サマリアの女は変えられていったのです。イエスの慰めに満ちた救いを聞き、受け取り、慰められ、そして今度はそれを周りに伝えていったのです。証する者に変えられた。女自身が、最初の証人に変えられていったのです。
イエスの歩んだ道は、ひたすら真っ直ぐでありました。それは物理的に真っ直ぐだっただけでなく、その思いもひたすらに真っ直ぐでありました。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ヨハネ3:16の言葉でありますが、神の愛によって、神の独り子がこの地上に与えられました。その独り子の歩んだ道は、私達人間の目からすれば、死にゆく道でありました。しかし同時に、まさに愛の道であったのです。その道の中にはたくさんの御言葉が溢れ、たくさんの人々が慰められた。そしてその後の復活において、私達にはさらなる赦しが与えられました。イエスの十字架の死にゆく道、と言うとどこまでも暗い道のように感じてしまいます。しかしその道は、ただただ真っ直ぐに、私達に救いをもたらす、イエスの直線状の歩みであったのです。イエスの十字架を経て復活に至るという、真っ直ぐな道でした。
私たちはその神の真実の愛に、与る者とされているのです。そのイエスの真っ直ぐな歩みの上に、私たちも置かれているのです。神によって与えられる、その霊と真に、与るのです。イエスは、霊と真理とをもった礼拝を神は求めておられると述べられました。場所としての重要性を問うたサマリアの女に対して、イエスは何をもって礼拝するかという事を説いたのです。どこで礼拝するかではなく、何によって礼拝をするのか。それは神から与えられた霊と真理をもってです。神の霊と、神の真とに、私たちは与るのです。守ることでも捧げることでもなく、礼拝に与るのです。
さらにその時は、今がその時であると、愛をもってして語られました。この「今」は、サマリアの女だけでなく、また当時の人たちだけでもなく、私たちにも同時に語り掛けられる「今」であるのです。神の時間軸の中では、いついかなる時も今なのです。私達人間の生きるこの地上においては、永遠に、「今」なのです。
サマリアの女が変えられたように、私たちも霊と真理とに出会うのです。神の霊と真理とに与る者として、今日もそしてこれからも、永遠の今の中で、その歩みを神と共に、十字架を背負ったイエスと共にしていきましょう。
(3月23日(日)主日礼拝メッセージ 四旬節第3主日 ヨハネによる福音書4:5~26)