創世記45:3-15/ルカ福音書 6:27-36
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。愛敵の教え
本日与えられた福音書の日課は「愛敵の教え」です。それは「敵を赦す教え」と言ってもよい。本日の第一日課・創世記45章には、自分を売った兄たちを赦すヨセフの姿が記されています。ヨセフは、兄たちに父親ヤコブからの寵愛を嫉妬され、憎まれた果てに奴隷として売られてしまいます。しかし、神の不思議な導きとご計画によって、夢を解き明かす力を発揮することによってエジプトの政を司る宰相となり、飢饉の時にエジプトに助けを求めに来た兄たちと再会して、それを赦してゆくのです。自分を憎み、自分を殺そうとした兄弟を赦す。敵を愛すること、自分に不利益をもたらした敵を赦すこと、これは私たちにとって簡単ではない、いや、大変に難しい事柄です。ほとんど不可能に思える。主の祈りの中にも「われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りがありますが、この祈りがどうしても祈れないという人が少なからずおられる。それは私たちが「どうしてもあの人だけは赦せない」という深い恨みに囚われていて、そこから抜け出せずにいるからです。そんな自分に自分でも情けなくなります。
弟子たちも主イエスに聞きました。「何回赦せばよいですか。七回ですか」と。主は答えられます。「七を七十倍するまで赦しなさい」と(マタイ18:22)。490回という意味ではありません。何回赦したか数えることを忘れるくらい、無限に、完全に赦し続けなさいというのです。しかし、そんなことは人間にはできはしない。私たちはそう思います。確かにそうなのです。イエスさまもそのことはよく分かっていたはずです。
主の祈りを学ぶたびに思うことは、「われらに罪を犯すものを赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という言葉の鋭さです。これは私たちの実存に深くメスを入れてくる主の言葉です。赦せないという気持ちをどこかで曖昧にしてごまかそうとしている私たちに、それは真正面から挑んでくる言葉でもあります。人間に自らの罪の姿、自分は赦されたいのに人は赦そうとしない自分勝手な罪の姿をつきつけてくる言葉なのです。しかしこの祈りがなければ主の祈りもこれほどの深みを持たなかったのではないかと思われる言葉でもあります。
敵意と憎悪のもたらすもの
本日の福音書日課の中で主はこう言われています。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」(27-29節)。これまた私たちに大きなチャレンジをしてくる主のみ言葉です。敵を愛し、憎む者に親切にする?悪態をつく者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈る? 長い間、「目には目を、歯には歯を」という同害報復法が当たり前ではなかったのか。つまり、怒りをエスカレートさえさせなければ復讐することも認められていたはずではなかったか。
敵意や憎しみ、悪口や侮辱というものが行き着く先に何をもたらすかは、聖書の歴史の中に、そして人間の歴史の中に明らかです。そこでは終わりなき戦いがエスカレートしてゆくだけです。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』然り、その現代版であるレナード・バーンスタインの『ウェストサイドストーリー』然り、敵意や憎しみは最終的には悲劇に終わる以外にはないのです。
聖書は私たちに、敵意と憎しみとがもたらす一つの悲劇を示しています。それは悲劇の極みと言ってもよいかもしれません。それはゴルゴダの丘の上の十字架の出来事です。人間の敵意と憎しみが一人の無垢な人間を十字架にかけた。そこには絶望的な闇が支配しています。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか!」 悲痛な叫びが深い闇を貫くのです。
しかし聖書はその後に不思議な出来事を示しています。十字架の闇が終わりではなかった。新しい光の物語が告げられている。それが主の復活と昇天、聖霊降臨と教会の誕生でした。神の救いのご計画があの深い闇の中で、ゴルゴダの十字架の上で成し遂げられたのです。
その光の中で、エフェソ書2章はこのように語ります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(14-16節)。十字架によって敵意が滅ぼされた! 敵意や憎悪、怒りや恨みが完全に取り払われたのです。独り子を私たちのために賜るほどの神の憐れみ深さ、愛の強さがそこには表れています。
神の高価な恵み
私たちは自分の気持ちをごまかさずに見つめたいと思います。簡単に人を赦すことができない自分の気持ちをすり替えないようにしたい。キリストの血潮という高価な恵みを私たちは安価なものにすることはできない。自分自身の中の憎悪や敵意、恨みや怒り、人を決して赦すことのできないその一番深いところに神が降り立ってくださったことを覚えたいのです。「イエスを十字架につけよ」と血に飢え渇いて叫ぶ群衆の中に私の姿はある。『パーフェクトストーム(完全な嵐)』という映画がありましたが、荒れ狂う人間の心の中の嵐を静めるためにキリストは自らを十字架の上にご自身を犠牲として差し出された。その贖いの血潮によって私たちの罪は清められ、私たちの咎は赦された!ここに私たちの依り頼むべき唯一の場所があります。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか知らずにいるのです」。このキリストの祈りの元に私たち一人一人が祈られています。本日は聖餐式です。主がご自身を私たちのためにあの十字架の上に与えてくださったことをパンとぶどう酒をいただくことの中で深く味わい知りたいと思います。
ヨセフ物語~神の憐み深さ
ここで、もう一度ヨセフ物語に戻りたいと思います。ヨセフはなぜ自分を売った兄弟たちを赦すことができたのか。憎んでも憎みきれない兄弟たちであったはずです。それはヨセフがそこに働いておられる神の救いのみ業を見ることができたからです。ヨセフは言います。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(創世記45:4-5)。さらにヨセフは続けます。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」(7-8節)。ヨセフはそこに神の民イスラエルを救う神の憐れみのみ業を見ている。人間的な怒りや恨みの感情は、その時、神の恵みのみ業の前に打ち砕かれてゆくのです。
これはヨセフにとっても簡単なことではなかったはずです。それはヨセフが兄たちを赦すことに至る道筋がそれほど簡単ではなかったことからも分かります。ヨセフは自分のことを隠しながら、自分の最愛の弟ベニヤミンを自分のもとに連れてくるよう兄たちに命じたり、ベニヤミンを盗みのかどで自分の身近に置いておこうとしたり、 章の和解に至るまでには行きつ戻りつのやりとりがあった。命がけでベニヤミンをかばおうとする異母兄弟ユダ(レアの四男)の姿にほだされてヨセフは遂に彼らに自分の身を明かしてゆきました。そのようにヨセフにも内面的な葛藤があった。
そのヨセフが、自分の身に起こったことが、人間の思いを遙かに越えて、神のご計画の中でイスラエルの救いのためであったことを知ったのです。私たちは人間の次元、水平の次元だけを見ていては分からないことがある。垂直の次元に目開かれるとき、天を見上げることができたときにはじめて分かるのです。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という事実を。主イエスは言われました。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(35-36節)。天の「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。神の愛の前には、善人も悪人もない。神の憐れみ深さはすべての人間に平等なのです。神はすべての人の上に救いのみ業が実現することを望んでおられるということをヨセフは知りました。
すべての人の人生において、ヨセフがそうであったように、神はご自身の救いのみ業を実現してゆかれる。私たちの人生の一コマ一コマは、私たちの思いを遙かに越えて、そのような神のみ業につながっているのだということを本日のみ言葉は私たちに告げているのではないでしょうか。
もちろんそのことが示されるべき「時」があるのだと思います。ヨセフにも「時」があった。「時」が来なければ分からない。「時」が満ちたとき、私たちの目は開かれ、神の憐れみの深さが分かる。時が満ちて救い主が私たちに与えられたことが分かる。これから与る聖餐式の中でご一緒にこの「救いの時」を喜び祝いたいと思います。キリスト・イエスにおける神の深い愛こそが私たちを造りかえてゆく力を持つのです。
お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2001年 2月11日 顕現節第5主日礼拝)