ルカによる福音書 7:11-17
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。人間の悲しみの現実
私たちは本日、福音書の日課においても、旧約聖書の日課においても、困難な人間世界の現実に直面しています。そこには一人の薄幸の婦人が登場します。彼女は寡婦でした。つまり、最愛の夫を失うという辛い体験をしていた。さらに加えて、病いでしょうか、事故でしょうか、自分の一人息子も命を奪われるという辛い体験の中に、ただ泣き崩れています。ルツ記に出てくるナオミのことを思い起こします。夫を失い、二人の息子を失い、夫の故郷であるベツレヘムに嫁のルツと共に戻ってきた時に彼女はこう言うのです。ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、(20)ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。(21)出て行くときは、満たされていたわたしを 主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ 全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」(ルツ記1:19-21◆うつろな帰国)
私たちの人生にはこのような不条理な、どうしようもない苦しみや悲しみというものがあります。なぜ神は私にこのような苦難を与え給うたのか。神はなぜ沈黙しているのか。なぜこの祈りに答えて下さらないのか。神はどこにいますのか。そのような問いを投げ掛けざるを得ないような状況が人生にはあります。「板子一枚下は地獄」という漁師の言葉があります。舟の底板の下は逆巻く地獄の海だという意味ですが、一人息子を失った母親はそのような現実の中で涙を流していたのだと思われます。私たちはこのような悲惨な現実の中で語る言葉を失います。ただただ心を痛めながら、共に涙を流す以外にはないのです。しかしイエスさまは違いました。私たちの悲しみの深い淵の底に降りてこられるだけでなく、その現実を創り変えてくださるのです。
悲しみの現実に降り立たれる主イエス
イエスさまは泣いている母親を深く憐れに思い(スプラングニゾマイ「断腸の思い」)、彼女に近づいて言われました。「もう泣かなくともよい」。悲しむ者にこのような権威ある言葉をかけることができる人間はイエスさま以外に一人もおりません。さらに近づいて棺に手を触れられこう言われたのです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると死んでいた息子は起き上がってものを言い始めました。背筋がぞくぞくするような場面です。そしてイエスは息子はその母親にお返しになられました。それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
この場面はエリヤがサレプタのやもめの息子を生き返らせる本日の旧約聖書の日課(列王紀17章)と重なります。このナインで起こった若者をよみがえらせた出来事は、ナザレのイエスが神の人エリヤと同じ神の権威を持っていることを人々に明示した出来事だったのです。
「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。「若者よ」という言葉は「青年よ」とも訳せる言葉です。コヘレトの言葉(伝道の書)12:1を思い起こします。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。(2)太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。」口語訳聖書の伝道の書ではこうなっていました。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、(2)また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。」
私たちもまた主によって「起きなさい」、「翻って(創造主なる神に向かって)生きよ」と呼びかけられているのです。それと同時に、私たちもまた涙の中に置かれている者たちにこの命の創造主なるお方の「若者よ、あなたに言う。起きなさい」という言葉を伝えてゆく役割が与えられているのだと思います。パウロがガラテヤ書で言う通りです。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」のです。
どれほど死の力が圧倒的に見えても、涙の谷から抜け出ることができないように思えても、私たちは生ける者と死せる者の両方の救い主である主イエス・キリストの「わたしはあなたに言う。死の中から起き上がりなさい。起き上がって神に向かって生きなさい」という力強いみ声を聴いて行くのです。
やもめもその息子も、やがてこの地上での命を終えて、神さまのみもとに帰ってゆきました。塵から出た者は塵に帰るのです。しかし、私たちを生かすのは私たちの鼻に吹き入れられた神の息であり、聖霊なのです。
「若者よ、あなたに言う、起きなさい」
死んでいる若者に向かってイエスは言う。「青年よ、あなたに言う。よみがえりなさい!」と。これは権威ある言葉です。先週の日課(ルカ7章の最初)ではローマの百人隊長が、病いで死にかかっている私の僕のために「ただお言葉をください」とイエスに申し出ました。そのことによってイエスはメシアとして神の権威を持っていることが明らかとなったのです。今日は、イエスが「神の人」と呼ばれたエリヤ同様、死んでしまったやもめの一人息子を死からよみがえらせる権威を持っていることが宣言されています。イエスの言葉(声/息)に「光あれ!」という宣言によって天地万物の創造を開始されたのと同じ神の力が宿っているのです。イエスの言葉には力があります。「青年よ、あなたに言う」。真正面からイエスは私たちに呼びかけてくるのです。その「深い憐れみ」のゆえに私たちに責任をもって関わりを持ってくださいます。「起きなさい」とは新約聖書に144回出る言葉です。ギリシャ語では「エゲイロー」、それは「目を覚ます、起きる、立ち上がる、よみがえる」という言葉です。マルコ5章には会堂司ヤイロの娘を「タリタ、クム(少女よ、わたしはあなたに言う、起きなさい)」(マルコ5:41)と言ってよみがらせ、ヨハネ11章にはマルタとマリアの兄弟ラザロを「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11:43)と呼びかけてよみがえらせた出来事が記されています。主は、必ず、その人自身に呼びかけてくださるのです。この言葉に力があります。この声に死の力を打ち砕く愛の力がある。このイエスの声は死んでいた者の耳に届くのです。ただこのような権威ある声に私たちは聴き従うしかないでありましょう。愛は死よりも強し、です。死はすべてではない。死は究極的なものではない。神の愛こそが究極的なものなのです。
主イエスはただ悲しみの中に降りてきてくださるだけではありません。遠藤周作の言うような「無力な同伴者」であるだけではない。力ある神の再創造のみ業を私たちに向かって行ってくださるお方なのです。
パウロはガラテヤ書の1章で「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と言っています。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」とダマスコ途上でパウロに呼びかけた復活の主の声は、パウロが生まれる前、母の胎内にある時から神の救いのご計画の中にあったものだったのです。私たちは一人ひとりがこの神の救いのご計画に与るようにこの世の生が与えられています。神の使命(ミッション)の中にパウロは人生の意味/目的を見出しました。私たちもまたそのような者でありたいと願うものです。
涙の洗礼式
ジョン・パットンというアメリカの牧師が『ミニストリーから神学へ』という本の中で紹介している「涙の洗礼式」という心に残るエピソードがあります。米国のある病院での出来事です。産婦人科は病院の中にあって唯一喜びと笑顔の溢れる場所です。そこで子供の誕生を心待ちにしていた一組の若いカップルがいました。悲しいことに、その女児は死産で産まれてきたのです。ニコルと名付けられた赤ちゃんのために病院のチャペルで祈りが捧げられることになりました。両親は涙を流し続けていました。看護師から赤ちゃんを受け取って腕にその抱いた若いチャプレンの目からも涙が止まりません。その場でその両親は娘のために洗礼を授けて欲しいと願い出たのです。突然の申し出で洗礼盤には水も用意されていませんでした。チャプレンは瞬間迷ったが、咄嗟にその申し出に対応して、彼らの涙と自分の涙をティッシュで拭い、「ニコル、父と子と聖霊のみ名によって私はあなたに洗礼を施す」と赤ちゃんの額にそっと十字を切って洗礼を施したというのです。このエピソードを思い起こすたびに私は心の震える思いがします。それが私に洗礼のサクラメントにおけるキリストのリアルプレゼンスを強く感じさせてくれるからです。私たちが言葉を失うほどの深い嘆き悲しみの中にあっても、キリストがその場に降りてきてくださり、嘆く者の傍らに共にいてくださる。そして涙を拭ってくださる日が必ず約束されているのです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネ黙示録21:3-4)。このようなお方が「もう泣かなくともよい」と呼びかけて、悲しむ母の手に息子を死の闇から取り戻し、返してくださったのです。愛は死よりも強し!私たちは死の力によっても滅ぶことのない主の永遠の愛の中に召し出されています。そのことを覚えながら、主と共に、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。「若者よ、あなたに言う。起きなさい!」
お一人おひとりの上に神さまの豊かな支えと守りがありますようお祈りいたします。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2007年6月24日 聖霊降臨後第四主日礼拝)