ルカ福音書 7:11-17
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。メシアとしてのイエス~エリヤとエリシャの再来
本日はイエスさまがナインと呼ばれる町で、一人の夫を亡くした婦人の一人息子を生き返らせる場面が記されています。それ自体すばらしい奇跡の出来事ですが、それは同時に本日の第一聖書日課である列王紀上17章に記されていた預言者エリヤがサレプタのやもめの一人息子をよみがえらせるというエピソードの再現でもありました。また、列王紀下4章には、預言者エリシャがシュネムの婦人の一人息子をよみがえらせる記事が記されていますが、それとも重なります。イエスの奇跡を見た人々が皆恐れを抱き、神を賛美して「大預言者が我々の間に現れた」「神はその民を心にかけてくださった」と言ったのは、イエスの中にエリヤとエリシャの再来を見たからです。本日の日課の次の部分である7:18以下では、洗礼者ヨハネが二人の弟子を派遣してイエスに「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたことが記されています。その時、主イエスはこう答えられました。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と(7:22-23)。先週の百卒長(百人隊長)の僕の癒しにしても、本日のナインのやもめの一人息子を生き返らせたことにしても、それは旧約聖書が預言し続けていた「神からのメシア」が到来したことの明確なしるしなのです。
片方でそのことを押さえつつ本日は、私たちにとってこのナインのやもめの一人息子を生き返らせるエピソードがどのような意味を持っているのかに焦点を当てて、み言葉に聴いてまいりたいと思います。
「涙の糧」
月報いちがや誌上に、市ヶ谷教会のメンバーであられる赤間峰子さんが、今年の5月の連休に大阪で行われた伝道セミナーの報告を書いておられました。「カトリックのお若い司祭松浦氏のユーモアを交えた講演にもいろいろと考えさせられました。『人は人生で三回泣く。一回目は母の胎を出る時、二回目は最愛の人を失った時、最後はこの世と別れる時だ』とおっしゃいました。私は前の二回を経験し最後の時に向かっているのだと納得しました」。
恐らく人生には三度と言わず、涙の谷とも呼ぶべき時が何回もあるのだろうと思います。そのことは私たちの人生を振り返るときに明らかです。詩編42編には「昼も夜もわたしの糧は涙ばかり」(4節)という言葉がありますが、涙ばかりを糧とするような、身を切られるような痛みを伴う悲しい別れが人生には確かにあるのです。
先週、月曜日から水曜日まで、市ヶ谷で日本福音ルーテル教会の合同常議員会が開かれました。5教区から常議員が出席し、今後の教会の歩みについて話し合いました。その中で一人の牧師が、最近自分の教会で起こった出来事について礼拝で詩編51編を引きながら「主よ憐れんでください」と説教されました。心を揺さぶられるような思いがいたしましたので、お話しさせていただきたいと思います。
ゴールデンウィークが終わった頃、ある教会員の息子さんが亡くなられたそうです。その方は、借金で首が回らなくなり、奥さまと二人の子供を残して、最後は自分で死を選ばれたのです。その牧師は彼の死を通して、自分が牧師としてその人と魂のレベルにおける関わりを持とうとしなかったことに深いざんげの思いで打ちのめされたと言いました。自分の中には、どこかでそのような家族を苦しめて借金までする人を軽蔑する気持ちもあったと正直に告白しつつ、死を選ばざるを得なかったその方の苦しい気持ちを分かろうとはしなかったのだと言われました。そのような圧倒的な罪責感の中で葬儀を執り行い、そこではただ神さまの憐れみに頼る以外にはなかったと語られたのです。「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(詩編51:3-4)。そして最後の最後で、私たちが「主よ、憐れんでください」と主の憐れみを求めて祈ることができる場所に立たされるということの深い意義を語られました。どこにも立つことができない者が主の深い憐れみの前に立たされる。ここにしか立てないと語られたのだと思います。
その告白を聞きながら私は思いました。孤独の中にただ一人死を選ばなければならなかったその人は、本当に辛かったことだろう。またその家族、特に奥さんと彼のご両親の痛みの深さは私たちの想像を超えたものがあると思います。牧師としての務めは、自らの罪悪感に苛まされることはあっても、まずそのご家族の悲しみをケアしてゆくことが大切であると思います。ご家族にとっては、深いところにあるショック、罪責感、怒り、悲しみ、痛みなどを、安全に表出することができる場と信頼できる人間関係が必要なのです。その先生の牧師としての使命は、自分の思いの中に閉じこもるのではなく、家族の側にあって、家族の思いに自分の思いをつなげてゆくことにあると強く感じます。言い換えれば、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ということです。家族は牧師以上に深い罪責感に苛まされているに違いないのです。
牧師の仕事はそのような仕事であるという理解が私の中にはあります。無力さの中で、一緒になって涙する以外にはない。主の憐れみの前に一緒に立つ以外にはない。言葉はいりません。み言葉を語ることも必要でない。祈りも呻き以外に声が出ないことでしょう。悲しみの中に一緒に踏み止まること、そこから逃げないこと。これが牧師の、そしてキリスト者の使命なのです。しかし人間は弱く、すぐに逃げだそうとしてしまうところがあります。み言葉に逃げようとしたり、祈りましょうと言って祈りに逃げ込もうとしてしまう。沈黙の中で一緒に涙を流す。怒りに身を震わせる。絶望に崩れ折れる。私たちにはそれしかできないし、それでよいのだろうと思うのです。
「もう泣かなくともよい」
そのようなどん底で、キリストの言葉が響いてくる。「もう泣かなくともよいのだ」と。 この言葉は主が「この母親を見て、憐れに思って語られた」とあります。子を亡くすとき、親は自分の力が至らなかったからだと自分を責めます。自分が代わってやりたかったと血を吐くような思いをする。「憐れに思う」とは「はらわたの痛くなるような深い思い」をもって主がその母親の痛みや悲しみ、悔いのすべてをご自身の身体の中心(はらわた)で受け止められたということを意味しています。「断腸の思い(ガットフィーリング)」という表現がありますが、まさにそのような思いです。「もう泣かなくともよい」とはどこか遠いところから、高いところから語られた言葉ではなくて、一緒に嘆き悲しむどん底において語られていると思われます。主もそのどん底に一緒に立っておられる。主はそこでそのやもめの悲しみをご自分のくびきとして背負われたのです。涙を糧として、泣いて泣いて泣きはらしたやもめの悲しみを主は担われた。私たちはそのように私たちと共に泣き、共に怒り、共に絶望してくださるお方を傍らに持っているのです。
この共に嘆き悲しんでくださるお方が、私たちに対して、ある時点で、傍らから、「もう泣かなくともよい」と語ってくださる。婦人会いとすぎの聖研で先週学びましたが、ヨハネ黙示録の7章の終わりには次のような言葉が記されています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(7:16ー17)。黙示録の21章にはこうもあります。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21:3-4)。
ここに「もう泣かなくともよい」と言って、涙をぬぐい取ってくださるお方がいる。このお方ご自身、十字架という涙の谷を味わい尽くしたお方です。人々の苦しみや悲しみを深い憐れみをもってご自身のはらわたで受け止めてくださるお方です。福音書にはここを含めて三度、イエスが死人をよみがえらせたことが記されています。他の二つは、マルコ5:35-43(その平行箇所のマタイ9章とルカ8章)の「タリタ、クム」(マルコ)と言って会堂司ヤイロの娘をよみがえらせた出来事と、ヨハネ11:1-14のラザロをよみがえらせた出来事です。いずれも、愛する者を失った悲しみに心揺さぶられ、悲しむ者の側に立ちつつ共に涙を流し、死の圧倒的な力に憤りをもって立ち向かってくださるお方です。ヨハネ11章の「ラザロの復活」では主は涙と怒りさえ表されました。
そしてこのお方は死からの復活によって私たちを死の陰の谷から、涙の谷から私たちは救い出すために、十字架に命への突破口を開いてくださったお方です。「もう泣かなくともよい。もうあなたは十分悲しんだ。私はあなたの悲しみの深さを知っている。私があなたと共にいる。あなたが涙を拭いて、本当の命の希望を見上げるときがきた。そのために私は来たのだ。怖れるな。神が泣く者の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない、そのような世界が来たのだ。私を信じ、わたしのなせる業を見なさい。悲しみの中にではなく、命の希望の中に生きなさい。あなたはもう泣かなくともよいのだ。」主イエス・キリストのそのような深い憐れみが命の奇跡を引き起こしたのです。
人生においてキリストと出会うことができた人は幸いであると言わなければなりません。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)と主が語られた通りです。
キリスト者の使命
そして、実はこのキリストの奇跡は、2000年前のあの時だけではなく、2000年の歴史を越えて、ずっと実現し続けてきたと教会は告白してきたのだと思います。「キリストのからだ」である教会を通して、キリストは今もこの地上で生きて働いておられるのです。キリストのあわれみのみ業を実現することは、牧師だけではなく、キリストに従う者の使命でもあります。キリストは、このような小さき者をも用いるほど憐れみに充ちておられるということです。キリストの愛と憐れみが私たちを捉える時、そこに不思議な出来事が起こる。死によっても打ち砕かれることのないキリストのいのちに生きることが可能となるのです。
「もう泣かなくともよい」と言ってくださるお方がお一人おひとりの新しい一週間の歩みを守られるようお祈りいたします。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2001年 6月24日 聖霊降臨後第3主日 礼拝説教)