説教 「あなたの信仰があなたを救った」 大柴譲治

ルカによる福音書 7:36-50

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

本日の主題:罪とその赦し

本日与えられた三つの日課はどれも大変に印象深い箇所で、どれも人生の大きなドラマを、神の前における人間のドラマを感じさせるものです。サムエル記下12章にはダビデの罪を糾弾し神の罰を宣言するナタン、そして罪に気づいて悔い改めるダビデの姿が描かれています。ガラテヤ書の2章では、ユダヤ人の目を気にして異邦人と食事をすることを避けるケファ(ペトロ)を公けの場で厳しく糾弾するパウロの姿が描かれている。そしてルカ福音書7章では、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った一人の罪の女性と、それを受容し、罪を赦す主イエスの姿が、シモンと呼ばれるファリサイ派の人物の冷酷な姿との対比の中で鮮やかに描かれています。

これら三つのエピソードに共通するものは何か。それは「あなたの信仰があなたを救った」というイエスさまの宣言に明らかなように、「まことの信仰とは何か」ということです。具体的には「罪とそこからの赦し」ということが問題になっていますが、本日はそれを、神との人間との間の次元(垂直方向の次元)と人間同士の次元(水平方向の次元)の二つの次元がクロスするというポイントから捉えてゆきたいのです。

ドラマ1~ダビデとナタン

まず、旧約の日課(サムエル記下11:26-12:13)に描かれた第一のドラマです。ダビデは自分の部下ウリヤの妻バトシェバの水浴する姿に一目ぼれして罪を犯しました。最前線にウリヤを送って戦死させることで、その妻を手に入れたのです。神が預言者ナタンをダビデのもとに送ってその罪を糾弾する場面が、本日与えられています(サムエル記下12章)。ナタンがダビデに告げる譬えは具体的で、鮮やかです。

「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに 何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い 小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて 彼の皿から食べ、彼の椀から飲み 彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに 自分の羊や牛を惜しみ 貧しい男の小羊を取り上げて 自分の客に振る舞った。」
ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。」

無慈悲にも部下から、その命も妻もすべて大切なものを奪ったダビデ。「その男はあなただ!」と厳しく糾弾するナタンの声でダビデは初めてハッと我に返り、自分の犯した取り返しのつかない罪に気づきます。妻だけではなくその命までも奪ったのですから、その譬えに出る「豊かな男」よりもさらにダビデの罪は深いと言わなければなりません。十戒の第六戒「姦淫するな」と第七戒「盜むな」、第十戒「むさぼるな」という戒めをだけではなく、第五戒「殺すな」という戒めをも犯しているのです。私たちが毎週礼拝の中で「奉献唱」として歌う詩編51編は、ダビデがこの時の自分の気持ちを歌ったものとして知られている悔い改めの詩編です。詩編51編が心を打つのは、そこに神の前に罪を心から悔いる一人の真摯な人間の姿が描かれているからです。

私はしかしダビデは二つの点でなかなかすごいと思います。「その男はあなただ」という罪の事実をはっきりと自分に告げてくれたナタンという預言者(=友)をそばに持っていたという点、そしてそのナタンの言葉を聴いて頑なにはならず、すぐに神の前に自らの罪を認め、それを悔い改めたという二点でやはりダビデは優れていたと思うのです。欲情に駆られてバトシェバを自分のものにしたとしても、ダビデの中にはどこか深いところに不安なやましい思いがあったのでしょう。人間の「良心」は容易に麻痺してしまうことがあるとしても、人間に良心が与えられていることの恵みを私たちは心に刻みたいと思います。そして、「あなたの目には丸太がある、梁がある」という苦い言葉を告げてくれる「友」の存在を大切にしたいと思います。そのような言葉を語る存在は決して「友」ではなく、自分を傷つけ倒そうとする「敵」に見えるかもしれません。ダビデは、アベルを殺したカインのように、ナタンを怒りに燃えて(十字架にかけて)殺してしまうこともできたはずです。王だからそのような権力を持っていた。ましてやそれは二人だけの場面ですから、そうしたとしても黙っていれば誰にも気づかれないでしょう。しかし、ダビデはそうしなかった。そうできなかったのです。それは彼がナタンの背後に神の存在を見ていたからでした。ナタンの表情の中に神の迫ってくるまなざしを感じ、ナタンの声の中に神の迫り来る声を聴き取ったのです。

私たちもまた、どこか遠いところにではなく、身近なところに神を臨在を感じること必要があるのかもしれません。具体的な友や敵の言葉の中に人間の次元を越えたところからの響きを聴き取ること。このナタンがダビデに向かい合う場面から、それを私たちは心に刻みたいと思います。水平次元の中に響いてくる垂直次元からの声を覚えたいのです。

ドラマ2~ペトロとパウロ

次は第二のドラマです。本日の使徒書の日課であるガラテヤ2:11-21 には、パウロがペトロを非難する場面が記されています。ここでアラム語で「ケファ」と呼ばれているのは「ペトロ」(ギリシャ語名で「岩」)のことです。異邦人キリスト者と食事を共にしていたペトロが、やがてエルサレムから来たユダヤ人キリスト者たちの目を気にしてそれを避けるようになったことをパウロは皆の前で厳しく非難するのです。異邦人と食事を共にするということは律法の食事規定を破ることだったからです。律法を守る行いによっては救いは得られない、ただキリストを信じる信仰によってのみ義とされるということをパウロはどうしても明確にしなければならなかったのです。パウロは言います。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。(20)生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」この言葉の背後にはパウロ自身の、キリスト教の迫害者からキリスト教の伝道者への劇的な回心の体験がありました。罪からの転換があったのです。使徒言行録9章には、ダマスコ途上で、パウロが復活のキリストによって天から呼びかけられ(「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」)、三日間目が見えなくなった後に、アナニアと出会って目からウロコが落ちる出来事が記されています。主がパウロの罪を明らかにし、アナニアがそれを赦してゆく役割を与えられてゆくのです。ダビデもそうでしたが、自分の姿に外からの言葉によって気づかされるということは恵みです。

パウロは自らがそうであったように、ペトロに対して面と向かってその過ちを糾弾しました。罪を罪を名付け、裁く役割がどうしても人間には必要なのです。そこには結果は書かれていませんが、ペトロはパウロの糾弾によって自分の過ちを認めたに違いありません。ダビデに対するナタンの役割をパウロは果たしたのです。そのような信仰の友を持つ者は幸いと言わなければなりません。私たちもある意味では安心して間違ってよいのかもしれません。神さまは必要なときに、必要な助け手を必ず与えてくださると信じてよいのでしょう。ルターが「大胆に罪を犯せ、そして大胆に悔い改めよ」といった言葉を思い起こします(1521年8月1日 メランヒトンへの手紙より)。

ドラマ3~イエスと罪の女、そしてイエスとファリサイ派のシモン

第三のドラマです(ルカ7:36-50)。これはルカだけが記しているエピソードです。主イエスが食事をしていると、一人の女性が香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろから足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻して香油を塗ったのです。ただならぬ場面です。私はこのエピソードを読む時、この深く痛み苦しんできた「罪の女」とよばれる一人の女性の深い思いをイエスさまはその存在の中心で、「はらわた」で受け止めておられるということを強く感じます。そしてそのことをその女性自身も黙ってそれを受容されるイエスの態度から自ら深く感じ取っていたに違いありません。それに対して、ファリサイ人の態度は何と冷たいことか。とても対照的です。ダビデの例を挙げれば「無慈悲な態度」です。

私はこのような場面を読むたびに思い起こす個人的な体験があります。私が神学生の時、1985年の秋ですからもう22年も前のことになりますが、築地の聖ルカ国際病院で3週間の臨床牧会訓練が行われました。当時聖ルカ病院のチャプレンであられた聖公会司祭・井原泰男先生の下で、毎日厳しい訓練が重ねられてゆきました。ようやくすべてを乗り越えた後に、井原先生がご自宅に学生たちを食事に招待してくださった時のことでした。井原先生が何気なく笑いながら私たちに語られた言葉が忘れられません。「僕はね。患者さんの話を聴いていて、一番大事なところになると胃がビクビク動くんだよね」。私にとっては「エッ!?そのような聴き方があるのか!?」という目からウロコが落ちるような衝撃を受けた言葉でもありました。忘れられない言葉でもあります。この言葉に出会うことができたおかげで私自身も臨床牧会訓練(CPE)に長くこだわり続けてきたように思います。私自身は、なかなかまだその境地には到達できていませんが、最近はそれが少しだけ分かってきたように思います。

イエスさまは苦しみ痛む人々の姿を見てしばしば深いあわれみを示されています。この「深いあわれみ」というスプラングニゾマイという言葉はスプリーン、つまり「脾臓」という言葉から来ている単語で、古代には胃の左後ろ側にある「脾臓」が感情が宿る座と考えられていたこともあるようですが、日本語では「はらわたがよじれるような思い」、「断腸の思い」ということに通じるのだと思います。英語ではガットフィーリングという言葉もあります。「ガット」とははらわた、胃腸のことです。その意味で、大事なところになると胃がビクビク動くという井原先生の言葉は、本当にイエスさまの深い憐れみ(スプラングニゾマイ)に通じる事柄なのだと思います。

二人の間では沈黙のうちにそのような深い感情レベルのやり取りがあるにも関わらず、イエスを食事に招いたファリサイ人シモンは全く異った次元でこれを見ているのです。39節にはこうあります。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った」。それにしても彼はその罪深い女が自分の家に黙って入ってきただけで嫌悪感を催していたに違いありません。しかしイエスがどのように振舞うか、その力量を自分の目で見極めるのによい機会だと考えたかもしれないのです。実際に彼はイエスが真の預言者ならば人の心を見抜くはずだが、罪の女も分からないのはイエスが真の預言者ではないということを明らかにしているであろう」と思っていたのです。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。

しかしそのシモンの心の中のつぶやきを見抜いてイエスさまは彼に向かって語ります。シモンという名を呼ぶくらいですから、何度か招かれてよく知っていた関係なのかもしれません。

(40)そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。(41)イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。(42)二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」(43)シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。(44)そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。(45)あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。(46)あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。(47)だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

シモンは主イエスのこの言葉をどのように受け止めたでしょうか。自分に対する預言者ナタンの言葉として聴くことができたでしょうか。そのことは記されていませんが、「シモン、あなたに言いたいことがある」という主の魂への呼びかけは、シモンの心に深く刻まれたに違いありません。主のこのような声と出会うことができた者は幸いであります。シモンはこの出来事を忘れることはできず、繰り返し思い起こしたに違いありません。ある日突然、自分の無慈悲さに気付き、それに打ち砕かれ、神の慈悲深さの前に心を開かれていったに違いないと思うのは私だけでありましょうか。イエスの声は預言者以上の、キリストとしての力を持っています。

聖餐への招き

本日私たちは主の聖餐式に招かれています。主は私たちのこころの深いところにある言葉にならない呻きさえも聴き取ってくださるのです。私たちはこの聖餐式に、主が私たち自身の涙や悔いや恥や痛みをなすがままに受容してくださっていることを感じながら、与りたいと思います。お一人お一人の上に主の豊かな慰めと赦しと導きとがありますように。主の御言葉が、罪に気づかない者には(預言者として)「その男はあなただ」と告げてくださいますように。そして、罪を悔いる者には(大祭司として)「あなたの罪は赦された。あなのた信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と告げてくださいますように。 アーメン。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな支えと守りがありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年7月1日 聖霊降臨後第五主日礼拝)