説教 「ゆるされる愛、ゆるす愛」 大柴譲治牧師

ルカ福音書 7:36-50

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

受容されることの大切さ

6月17日、当教会で東教区・医療従事者の会と共催で講演会が行われました。講師は児童精神科医の佐々木正美先生。演題は「児童精神科医から見た子育て~何が足らなかったのか、そして何に気づくべきなのか」。170名もの参加者を得て、時宜を得たという意味でも内容的にも、たいへんによい講演会でした。佐々木先生の含蓄に富んだ話は子育てに限らず、人間関係の様々な場面で有用なものだったと思います。

「母性的な愛と父性的な愛は子どもの成長と自立にとってその両方が必要であるが、バランスよりももっと大切なのはその順序であって、まず最初に母性的な無条件の受容が来なければならないのです。」「人を受容するためにはまず自分が受容される必要があります。」子供たちを丸ごと受け入れてくれる祖父母の存在や近所のおじちゃんおばちゃんの存在の大切さ、地域コミュニティーの大切さについてユーモラスに語られた言葉も印象に残りました。

また、現代社会の現実にも触れられました。現代の若者たちに「あなたは自分が好きですか」と問うと即座に「自分は大嫌いです」という答えが返ってくることに言及されました。自分をありのまま丸ごと受容されるという経験が乏しかったと思われます。あるいは、学校でのいじめを調べてみると、いじめられる子を助けようとする子どもは家庭で親との関係がしっかりしていることが多いと数字を上げて説明されました。親と子の絆の中で子どもは育つのです。「もう遅い。失敗してしまった」と思う必要は全然ないのだとも語られました。

佐々木先生には『お母さんが好き、自分が好きと言える子に』という著作もありますが、子どもやお母さんに対するその暖かいまなざしに深く慰められ、励まされた方も多かったのではないかと思います。

私たち自身、自らの体験を振り返っても、まるごと受容されるということの大切さを知っています。母の胎内にあったときがそうでした。そこでは私たちの存在そのものがそのままで受容されていました。自分が受容されるという体験を持つ者が他者を受容してゆくことができるのです。逆に言えば、そのような受容体験を持たない者は他者を受容することが難しいということになります。

佐々木先生はそれ以上は語られませんでしたが、それを聞きながら私は改めて信仰を持つということの意義深さを思わされました。信仰とは、ありのままの自分がまるごと無条件に神さまに赦され受容されているということを知るということだからです。その意味でこの礼拝や教会という場は、神の母なる愛によって受容される場であるとも言えましょう。遠くから近くから私たちが礼拝に集うのは、実はここで私たちに注がれている神さまの無条件の愛を確認し、その中で自分自身を見つめ、慰めと励まし、戒めと導き、希望と新たな力を得てそれぞれの日常生活の持ち場へと帰ってゆくためだと思います。あの十字架は神が私を受容してくださったことのしるしなのです。

罪の女とファリサイ人シモン

そこから改めて福音書の日課を読み直してみたいのです。二人の人物がイエスさまの前に登場します。その一人、罪の女性は、「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」とある。彼女がどのような悲しい人生を歩んできたかはそのエピソードが端的に示しています。彼女は自分の弱さと罪を知っていた。しかし人々から後ろ指をさされながらも、彼女は必死につっぱって生きていたのかもしれないとも想像します。彼女はそのような中でイエスさまと出会った。

イエスさまという方は真に不思議なお方です。イエスさまの前で私たちは身構えなくてもよい。飾らなくともよい。弱いまま、ありのままの自分でいてよいのです。彼女は自分をありのまま、丸ごと一人の大切な存在として受け止めてくださるお方と出会った。涙によって洗足し、髪の毛でそれを拭い、足に接吻するという象徴的な行為は、そのような主の、存在を受容し、赦してくださる主の愛に対する感謝の応答でもありました。

それに対し、もう一人の登場人物ファリサイ人シモンは対照的です。彼は罪の女性を受容することはできないし、彼女を受容したイエスを受容することはさらにできないでいる。それはシモン自身が自らを受容された体験を持っていなかったからだとも言えましょう。彼は丸ごと自分の弱さや罪を無条件で赦し、受け入れてくださる神の母なる愛を知らなかった。「受容するためには受容される必要がある」と佐々木正美先生が語られた通りです。弱い者、小さな者を受け入れてゆくためには、自らの弱さを知り、それを神さまに受け入れていただくという体験が決定的ではないかと思います。

しかし、「シモン、あなたに言いたいことがある」とイエスさまがシモンの名を呼びかけられたことには深い愛に満ちているように思います。考えてみればイエスさまはシモンの食事の招きを受け入れられた。拒絶されてはいない。シモンとのやりとりは親が子供を受容しながらきちんと言い含めるような響きを持っています。イエスさまはシモンの心の動きをご存じでした。当時のユダヤ教の社会の中で、ファリサイ人の家の食卓に一人の罪深い女性が同席するということは異様なこと、ありえないことでした。ファリサイ人は汚れたものには近寄らないことをモットーとしていました。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」とシモンは心の中で思いましたが、それは自分の弱さ、罪深さを棚にあげた言い方です。シモンは自分の姿を知らないでいるのです。

ダビデに対する預言者ナタンの叱責~神の父性愛

聖書は本当に奧深い書物だと思います。神の受容的な母なる愛について語りつつ、本日の旧約の日課・サムエル記下11:26-12:13では、預言者ナタンがダビデの罪を叱責する場面が記されています。

ダビデは自分の部下ウリヤの妻バテシバを、ウリヤを最前線に送って戦死させるという卑劣な手段を用いて自分のものとしてしまった。これは人の妻をむさぼり奪うという十戒に背く罪を犯したことになります。

ナタンはダビデに豐かな男と貧しい男の話をします。「豊かな男は多くの羊や牛を持っていたが、貧しい男は一匹の雌の小羊しか持っていなかった。小羊は彼のもとで育ち、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があると、彼は旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」ダビデはその話に激怒して言います。「そんなことをした男は死罪だ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」するとナタンはダビデに向かって言うのです。「その男はあなただ」と。

これは大変にストレートな審きの言葉です。ナタンは極めて明確にダビデの罪を告げる。不思議なことにダビデは、ナタンに叱責されるまで自らの罪に気づかなかった。人間は本当に愚かです。人の姿はよく見えても、自分は見えないでいる。私たちは自分の姿を見るためにはどうしても鏡がいるのでしょう。人を無条件に受容する「母性的な愛」と人にあるべき方向を示してチャレンジする「父性的な愛」という側面から見ますと、ナタンの叱責は明らかに「父性的な愛」の重要さを示しています。

「律法と福音」も「父性愛と母性愛」とも理解することができましょう。人間の成長と自立のためには両方が必要なのです。しかしまず最初に母性的な愛が来る。ありのままで受容される愛、無条件に赦される愛が大切です。実は、ダビデがナタンの言葉を心をかたくなに閉ざすことなく受け止めることができたのも、ダビデがナタンを神からの預言者として信頼していたためです。ダビデは神の受容する愛を信じていた。

実は、本日の日課でダビデの罪と罪の女性の記事が重ね合わされているところに深い意図があるように思います。神は必要な時に必要なかたちで、母性愛と父性愛の両方をもって私たち一人一人を愛してくださっている。そこに愛なる神の真実な姿がある。本日の主題詩編はダビデ詩編32:1-11です。「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」これはダビデの詩編であると共に、あの罪の女性の詩編でもあった。そして私たち自身の詩編なのです。神は打ち砕かれた心を軽んじられません。すべてを委ねることができる神の深い憐れみを知るものは幸いであると言わなければなりません。

聖餐への招き

私たちはこれから聖餐式に与ります。そこで私たちは、神がその独り子を私たちの罪を赦すために贖いの子羊とされたことを思い起こします。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流されるわたしの血における新しい契約」。ここに私たちを丸ごと、ありのままの姿で受容してくださる神の姿がある。このことを知る者は何によっても揺るぐことのない深い心の平安を与えられるのです。神に赦されていることを知る者だけが、他者を赦すことができる。

イエスさまは罪深い女性に言われました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。「信仰」とは「私たちの中に働く神さまのみ業」であるとすれば、それは神が私たちを見捨てず、受容し、私たちと共にい続けてくださるという意味でありましょう。「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということであります。私たちもまたこの神の愛の中に新しい一週間を踏み出して參りたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの愛の力が豐かに注がれますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年 7月 1日 聖霊降臨後第4主日 礼拝説教)