ルカによる福音書 9:18-26
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。「イエスは何者か」「私は何者か」
私たちは今日、弟子たちと共に「イエスは何者であるか」という問いの前に立たされています。そのことは同時に、「私は何者であるか」という実存的な問いと表裏一体になっていることを知らされるのです。イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
ペトロが弟子たちを代表して正しく答えています。「メシア」とはヘブル語で「油注がれた者」(ギリシャ語では「キリスト」)の意です。旧約以来、神によって特別な使命を与えられた王や預言者が頭に油を注がれてきました。このペトロの答えは単に「イエスはキリストである」という以上の意味を持っています。そこでは「あなたは私にとって救い主です」という信仰の告白がなされている。そしてその「告白」は「私は何者か」ということを告白する側面を併せ持っています。
ペトロはここで「自分のメシア像」をもってイエスを見ています。ペトロに限らずすべての弟子たちは、あのダビデ王のような「力あるメシア像」をイエスに期待しているのです。力による圧制からの解放者です。しかし、主が語るメシア像はそのようなイメージとはかけ離れたものでした。それは「無力なメシア像」であり、「人々に打ち捨てられ、殺されるメシア像」でした。それは、イザヤ書53章が預言するような「苦難のメシア像」であり、他者のため自らのすべてを捧げてゆく「愛のメシア像」でした。主はここから十字架の苦難を予告し始めます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(21節)。弟子たちはこの言葉にさぞかし驚いたに違いありません。
さらに主は言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(23-25節)。
神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた主イエスの言葉です。そこには人となりたもうた神、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられたメシアの姿が重なります(フィリピ2:6-8)。誰がこのようなメシア像を期待できたでしょうか。神の御心は人間には計り知ることができないほど深く、広く、高いのです。
ここで私たちは、自分の期待や自分の計画、自分の思いといったものをイエスに投影するのを断念するよう求められています。「自分を捨て、自分の十字架を負う」というのは、主権はこちら側にではなく向こう側にあるということです。自分自身は徹底して打ち砕かれてゆく必要がある。そこで自分の罪を告白するよう求められている。「罪の告白」と「信仰の告白」とは、そこに「告白confession」という同一語が使われていることからも分かるように、表裏一体なのです。
しかし不思議なことですが、自分を捨て、罪を告白し、自分に与えられた十字架を負うしかないという覚悟を決めると、心が実に楽になります。ジタバタしていたのが開き直るからでしょうか、全部向こうにお任せするしかないからでしょうか、心が軽くなる。ある方は洗礼を受けた時のことをこう語っておられました。「洗礼を受けるまでは、自分が生きていると思うと辛かった。しかし洗礼を受けた後は、自分が生きるのではなく、生かされているのだと思うと楽になった」。
ペトロの場合
本日は特に、「あなたこそ神のメシアです」とキリスト告白をしたペトロの場合を見てゆきましょう。マルコとマタイは、ペトロがキリスト告白をした直後に、イエスから「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責されたことを伝えています。それはペトロが自分のメシア像をイエスに押し付けようとしたからです(マルコ8:31-35)。そう見てゆくと、「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ということは何を意味するのか。自分がこだわっているもの、自分がどうしても譲れないものを私たちは簡単には捨てることはできません。捨てられないものを私たちはたくさん抱えている。それは旧約のヨブの告白を思い起こすとよく分かります。ヨブは財産と子供をすべて失った時に次のように告白しました。「わたしは裸で母の胎をでた。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が奪われたのだ。主のみ名はほめたたえられよ」(ヨブ1:21)。私たちはこの告白の持つ重みを知っています。すべては神のイニシアティブの中に置かれているとヨブは言うのです。その前では私たちは裸であり、ゼロであり無でしかない。神から与えられる事柄に対して「然り」「御意」と言う以外にない。どのような思いをも、どのような計画や具体的なスケジュールや、期待や希望をも、私たちは人生において捨てなければならない時がある。それは私自身が打ち砕かれてゆくプロセスでもありましょう。
ペトロに戻りましょう。彼が一番自分の罪に打ち砕かれた場面はどこか。それはやはり、主イエスを鷄がなく前に「あんな男なんか知らない」と三度否んだ場面です。最後の晩餐の中でイエスはそれを予告します(ルカ22:31-34)。その言葉にペトロは「なぜ主は私を疑うのか」と混乱したに違いありません。しかし実際その通りになってゆくのです(同22:54-62)。
マルコとマタイはペトロがそれを必死で打ち消した姿を記しています。ペトロは自分がそのようなことをするのは絶対あり得ないと考えています。
するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。(マルコ14:29-31)
ペトロは確かに素朴で不器用な一人の漁師でした。彼において言葉と行いはさほど分離していなかったでありましょう。特にペトロが漁師仲間でリーダーシップを取れるほど信頼されていたということは、やはり言行が一致していたからだと思われます。
私は神学生時代、日本基督教団総会議長として戦争責任告白を1967年に公にした後、ガンに倒れた鈴木正久牧師の説教テープを聴いたことがあります。それはこういう主旨でした。「人は意外に簡単に死ぬことができるものなのだ。人は主義主張のために殉教することができる。ペトロもそうであった。彼は主のためになら死んでもよいと覚悟していると言った時、本当に死ぬ気だったはずだ。そしてもしその気持ちが最後まで貫かれていたら、ペトロは自分の言葉通りに死んでいたであろう。しかし、主はそれを許さなかった。ペトロたちが自分の主義主張に殉ずることは許さなかった。ペトロはイエスの裏切り予告によって混乱し、訳が分からなくなった。訳が分からなくなると人間は死ねなくなる。そのことによって主はペトロの思いを打ち砕かれたのだ。ペトロの期待、ペトロの計画、ペトロの思いを主は打ち砕かれた。人の思いではなく、それが打ち砕かれた後に上から与えられる神の思いに服従することを、そのことを通して示されたのである」。そう鈴木正久先生は語っておられたのです。
まことにその通りと思いました。目からウロコでした。私たちは自分の思いを捨て、神から与えられるものを、(たとえそれが十字架であろうとも)それを背負ってゆくのです。そしてそのことは私たちの「信仰の告白」がそのまま私たちの「弱さ(罪)の告白」でもあるということを覚えるときに心に響いてきます。ペトロがイエスを三度知らないと否む場面を続けて読むとよく分かります。ルカ福音書22:54-62です。ここはじっくりと味わって読みたいところです。
人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
ペトロは自分でもどうしようもなくなって慟哭の涙を流す。そのペトロを主はそのまなざしの中に捕えるのです。主のまなざしのことはルカ福音書だけが記していますが、実に印象的です。「わたしは最初からあなたの弱さを知っていた。あなたがわたしを知らないと三度否むことを知っていた。あなたの涙、あなたの痛みを知っていた。そう、それでよい。自分に頼るのではなく、自分の思いに殉ずるのではなく、自分を捨て、自分の十字架を負って私に従いなさい。ありのままの打ち砕かれた姿でよい。神が求めておられるものは、あなたが自信をもって備えたいけにえではなく、涙の中に打ち砕かれたあなた自身の魂なのだから」。主のまなざしはそのようにペトロに語りかけていたのだと思います。
主から「わたしを何者だと思うか」と問われて、「あなたこそ神のメシアです」とキリスト告白をしたペトロ。このキリスト告白は、実はこのペトロの打ち砕かれた涙の中で本物へと精練されていったのです。これが悔い改めの涙であり、新しい私という人間の創造なのです。すべてはいつも水の中から始まります。母の胎内にあった時の羊水然り、洗礼然り、そして悔い改めの涙然り。私たちは絶えず水によって古い自分が死に、新しい自分が新たにされてゆく。これが自分を捨て、自分の十字架を背負ってキリストに従うということです。私たちもまた、自分の無力さを知る涙の中で、私たちを捉えて放さないキリストへの信仰を大胆に告白してゆきたいと思います。
お一人おひとりの上に神さまの豊かな力が臨みますように。神が私たちのキリスト告白を豊かに用いてくださいますように。アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2007年7月8日 聖霊降臨後第六主日礼拝)