ルカによる福音書 13: 1- 9
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。罪と罰~因果応報の呪縛
本日は「悔い改め」ということを「涙」ということと絡めながらみ言葉に聴いてまいりたいと思います。今日の箇所の前半部分は「悔い改めなければ滅びる」という小見出しがついておりますが、二つの歴史的事件がイエスさまによって直接言及されていることからも特異な箇所であると言えましょう。おそらくこの二つの事件は当時のイスラエルの人々にとっては大変にショッキングな事件であったと思われます。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜた」というのは恐らく、北のガリラヤ地方から南のエルサレムに巡礼のためにやってきたユダヤ人を、犠牲の血が注がれる神殿において、総督ポンテオ・ピラトの軍隊が殺戮したという事件が起こったのではないかと思われます。イスラエルの人たちは因果応報の考え方を取りますから、エルサレムで起こったもう一つの事件、倒れた水源地シロアムの塔の下敷きになった18人の犠牲者と同様、そのような災難に遭遇したガリラヤ人の犠牲者たちは、神への罪に対する罰を受けたと考えたようです。
イエスさまはそのような因果応報の考え方に対して断固とした否を語ります。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(2-5節)。
「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とイエスさまは強く厳しい口調で二度も繰り返しておられる。その事件を持ち出してきた者の無神経さにイエスさまは激高したのではなかったか、私にはそう思われます。「どれほど当事者とその家族が悲しみ苦しんだことか。あなたがたにはそれが分からないのか。神が罰を下したのではない。その苦しみに鈍感であってはならない。あなたがたは心のかたくなさを悔い改めよ」。
涙
偶然にある災難に巻き込まれ、その被害者になるということが私たちの周囲では日常茶飯事のように報道されています。心を痛める事件が毎日起こっている。「運が悪かった」。そう思いつつ私たちは、深いところで「自分でなくてよかった」とホッとしていることにも気づきます。そしてそのように思っていることをあわててうち消して、後ろめたさからそう思わなかったことにしようとする。人間の心の動きはまことに不思議で、酷く、利己的な面があります。「傍観者の利己主義」です。イエスさままさにそこを問題としているのではないか。「なぜ泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜べないのか?あなたの心はなぜかたくなになっているのか。どこであなたは心の鎧を脱ぐのか。」そう私たちは問われているのではないのでしょうか。もちろん、私たちの中には、そのような悲しい事件を聞いて、人ごとに思えず、心を痛め、涙を流す人もおられましょう。自分を振り返ってみても、いちいち動揺して胸のつぶれるような思いをしていては新聞やニュースなどを見ることができないので、自分を守るために無感覚になるよう心に鎧をかぶりますが、本当は、深いところで心は痛み続けているように感じます。心はいつも泣いているのです。
いじめや自殺、不登校などについての報道を読みながらしばしば私は思います。現代は心の優しい魂ほど傷ついてゆく、そういう時代ではないのか。このような時代に平気でいる私たちの方がよっぽどおかしいのではないか。そのような柔らかい魂、優しい心を持つ人々がありのままで安心できるような居場所を私たちの教会は本当に提供できているのだろうか、と。
涙を流す人と接すると私も一緒に泣きたい気持ちになります。牧師になってちょうど15年が終わろうとしていますが、時が経てば経つほど自分が涙もろくなってきたように思います。まだ比較的若い44歳の私が言うのもおかしいかも知れませんが、歳のせいもあるのかもしれません。向かい合う人の気持ちがダイレクトに伝わってくる。それだけ牧師として訓練と経験を積んできたということでしょうか。冠婚葬祭や病院訪問などの牧会体験を積めば積むほど、牧師として感受性が鋭くなってきているように思います。
考えてみると、涙というものはたいへんに不思議なものです。人間だけが喜怒哀楽の時に涙を流す。悲しいときだけでなく、悔しいときにも、怒りに燃えるときにも、逆に、うれしいときや感動したときにも涙が出ます。神さまはなんと不思議な涙の泉を私たちに与えてくださったのでしょうか。
昨年2月に網膜剥離で入院したときに、時間だけはいっぱいありましたからいろいろと考えました。人間の顔の機能について考えたのです。口も鼻も耳も、最低二つずつ大切な機能がある。口は語るだけでなく食べるためにあり(呼吸もありますが)、鼻は嗅ぐためだけでなく呼吸をするためにあり、耳は聞くだけでなく平衡感覚を司るためにある。では目はどうか。目は見るためだけにあるのか。口や鼻や耳と同様、目にも二つの働きがあるのではないかと考え続けて思い至ったのは、目は見るためだけではなく涙を流すためにあるのではないかということです。先週の日課もそうでしたが、目の見えない人がイエスさまに癒されるという出来事は福音書の中には何度も記されています。もしかすると、目が開かれるというのは、視力が回復することではなく、人間のもっとも人間らしいこと、すなわち涙を流す力が回復することなのではないか。そう考えました。だとすれば、自分が視力を失うということは本質的なことではないのではないか。涙を流すことができなくなることこそ恐れるべきではないか。私は目を患って、見えるということのすばらしさを思いながらも、涙を流すということの深い意味に目を開かれていったように思います。
涙には何の働きがあるのかという本を以前に読んだことがありますが、どうもよく分からない。しかしこれだけは言えるだろうと思います。それは涙を流している時に人は無防備になっているということです。泣いているときには力が入らないし、涙を流している時に攻撃されたらひとたまりもありません。私たちは自分を守るためにも安全な場所でなければ泣けないのです。米国にある親を亡くした子供たちの家・ダギーセンターでも安心して思いっきり泣いたりわめいたり暴れたりすることができる場所が提供されているようです。
赤ちゃんのことを考えていただいたらよいのですが、赤ちゃんはまったくの裸であり、無防備です。人間は最初泣くことしかできませんでした。泣くことが仕事だったのです。お腹が空くと泣き、おしめが濡れると泣き、眠くなると泣きます。私は母親がすごいと思ったのは、赤ちゃんの泣き声を聞くだけですぐ何を求めているかを聞き分けるという能力です。父親はおろおろするだけで無力感でいっぱいになります。
赤ちゃんの時に思いっきり泣いて、思いっきり母親に面倒をみてもらうということは大切なことのようです。いっぱい泣くと肺機能が高まって元気な子どもに育つようですし、かといって泣かせてばかりいると赤ちゃんが母親不信から、ひいては人間不信になるという説もある。よく分かりませんが、分かることは私たちの人生は泣くところから始まったのです。確かに母親の胎を出た瞬間に私たちはオギャーと泣いて肺呼吸を始めます。
いつの頃からでしょうか。大人は泣かないものだという「常識」が定着したのは。涙を流すことは次第にプライベートな次元に閉じこめられてゆきます。特に、「男は人前で涙を流さぬものだ」などという価値観の中で育てられた男性陣は涙を流さなくなってゆく。そこでは人前で泣くことは恥なのです。泣くと無防備になると申し上げましたが、企業戦士たちにとって戦場で涙を流すということは許されないことでありましょう。泣くことは敗者になることを意味するのです。
以前に、カナダ制作のドキュメンタリーだったと思いますが、戦場に出る兵士を鍛えるための訓練をドキュメントした作品がありました。恐ろしかったのは、洗脳教育と同じですが、厳しい訓練の反復の中で、兵士たちは次第に思考力を失い、死に対する恐怖感を失ってゆきました。そうでなければ上官の命令に服従することはできないからです。訓練は兵士たちから涙する力を奪っていった。人間的な喜怒哀楽の感情を消し去って機械のように無感覚、無感動に慣れさせてゆくのです。ある意味では異常な精神状態です。私たちは機械ではないのですから、どんなに無感覚になっても、どこかで柔らかい心を持っています。皆さんの中にも、戦争体験のある方は、今でもその体験が心の深いところで苦いおりのようになって沈んでいる方もおられることと思います。
泣くことを止めたとき、同時に私たちはどこかで人間らしい心を失っているとも言えます。無感覚、無感動になっているのです。そう考えると「メタノイア(悔い改め)」「神への方向転換」とは、「涙を取り戻すこと」だと言えるのではないか。私にはそう思えてなりません。皆さんはどうお考えでしょうか?
私の中には、自分の目の前に座っておられる人が涙を流されるのに接するとホッとする部分があります。それには二つの理由があります。第一は、涙を流すことによって今まで押さえてこられた気持ちを外に表現することができたのですから、その方はそれまでよりずっと気持ちが楽になられると思うからです。第二は、私を人間として信頼してくださったということが分かるからです。涙という一番弱い部分を見せてくださるわけですから、信頼がなければ泣けない。私を牧師として信頼して自分を開き、ありのままの気持ちを出してくださったのです。時には「思いっきり泣いてよいのです」と申し上げることもあります。
もちろん時には病的な涙ということもあるかもしれませんし、涙も武器となりますが、私はむしろ涙が出ない状態の方が心配です。ある意味で涙とは人間らしい優しい心を持っているかどうかを示すバロメーターだと思うのです。人は涙を流せない方が辛い。涙を流さない時、涙を流すことができないとき、人は身構えて、心に鎧をかぶっているのではないかと思うのです。私は引退して帰国されたケネス・デール先生のように、安心してその前で涙を見せることができるような包容力のある牧師でありたいと願います。
悔い改めの涙というものを大切に考えたいのです。私たちが自分自身の弱さや恥や罪を知り、神さまの前に立ち返るとき、ちょうど放蕩息子が父親の腕の中で「お父さん、本当にごめんなさい」と悔い改めの涙を流したに違いないように、私たちもまた悔い改めの涙を流すのだと思います。神さまの愛に触れるということはそういうことなのです。その独り子を賜るほどに私を愛してくださったその愛を思うときに、私たちは涙を流さずにはおれないのではないか。
「もしそれでもだめなら」
そこから本日の福音書の日課の後半部分を理解したいと思います。実を実らせないいちじくの木のたとえです。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」(6-9節)。これは必死になって実を実らせないいちじくの木の世話をする園丁の話です。ぶどう園の主人とは神さまのことであり、ぶどう園とはイスラエル、園丁とはイエスさまのことを意味しています。実を結ばない木(=人間)を切り倒せというぶどう園の主人(=神さま)に、もう一年待ってくださいと執り成しをするイエスさまの姿が重なります。悔い改めることをせず、因果応報説を自己の安心立命のためにしか用いようとしない人間を、なんとか悔い改めの実、涙の実を結ばせようと世話するイエスさま。そこには失われた羊を求めてどこまでも探し歩く羊飼いの姿が重なります。
主は私たちのために神さまにとりなしてくださっています。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』。私は最後の「もしそれでもだめなら、切り倒してください」という言葉はこう聞こえます。「もしそれでもダメなら、私をその身代わりに切り倒してください」と。ここに涙を共にしてくださったお方がいます。
私たちは四旬節を過ごしています。主イエス・キリストが十字架へと歩まれた苦難の道行きを覚える期節です。私の代わりに切り倒されたのは十字架のキリストだったということを聖書は伝えています。主は私のために泣いてくださった!「父よ、彼らをお赦しください。何をしているか分からないのです。」このお方の愛の前で、私たちのかたくなな心は打ち砕かれ、私たちは涙を流す力を失った自分の姿に気づき、神への方向転換をさせられてゆくのだと信じます。キリストの十字架の愛を知るとき、私たちは心の底から神の痛みを理解し、悔い改めの涙を流すことができるのです。
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」(詩編126:5-6)。
涙のうちにある者たちがイエスさまの豊かな祝福を受けることができますように。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2001年 3月18日 四旬節第3主日礼拝)