説教 「富の用い方」 大柴譲治牧師

ルカによる福音書16:1-13

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

富の用い方

本日の箇所は、部分的には明快に意味が分かりますが、全体としてはなかなか理解が難しい箇所でもあります。分かりにくく感じるのは、どうもイエスさまの富について別々のコンテクストで語られた複数の教えを一つにまとめたというような節が見えるからです。ここで「富」とは「マンモン」という言葉が当てられています。

たとえば一番最後の13節、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」という主の言葉は明快です。仕えるのは二つに一つ、神に仕えるか富に仕えるかしかない。そこでは富が言わば神と同じ位置を占め、富の持つ誘惑、魔性といったものが警告を発せられていると理解できます。「拝金主義」という言葉もありますが、旧約聖書では富を拝むことをマンモンの神に仕えるという言い方で偶像崇拝として明確に退けています。神と富に同時に仕えることができないという言葉は、モーセが十戒をシナイ山の上で神に授かっている時にイスラエルの民が金で造った子牛を拝むという罪を犯してしまったことを思い起こさせます。偶像とは真の神から私たちの思いを引き離してしまうものを指します。

しかしこのたとえはよく読むと、単純に神と富に仕えることはできないという主題だけではないことに気づかされます。8-9節にはこうあります。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。ここでは「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と奨められています。「ハトのように素直で、そしてヘビのように賢くあれ」(マタイ10:16)という言葉を思い起こしますが、ここで「不正にまみれた富」と言われていても、もちろん「富」そのものが問題なのではありません。富の「用い方」が問題とされているのです。この僕は自分のものでもない主人の富を不正に用いて、負債者たちに恩を売って、自分が将来陥るであろう困窮状態を脱出しようとしたのです。富を「賢く」用いた点が主人にほめられています。実はルカ15章の放蕩息子のたとえにおいてもやはり富の賢い用い方が問題となっていました。

サンディエゴでの体験から

「不正にまみれた富を用いてでも友達を作りなさい」と言われますと、私たちはどうしても前半の「不正にまみれた富で」という所に意識が行ってしまいがちですが、ここでは後半の「友達を作りなさい」ということの方に力点を置いて理解したいと思います。

それは私自身が6月から8月までの三ヶ月、米国カリフォルニア州の南端にあるサンディエゴという街で体験したことと重なり合っています。そのことのまとまったお話は午後からの修養会の中でお話いたしますが、一つだけ、今日の日課と関係があると思いますので、先にお話をさせてください。

6/7から8/18までの11週間、私はサンディエゴにあるVITASホスピスでチャプレンとしての研修を受けてまいりました。私にとっては三度目の臨床牧会教育Clinical Pastoral Education(略してCPE)となります。私は7つのナーシングホームに入所する15人の患者を担当することになり、毎週一回のペースで訪問してゆきました。患者の年齢はご高齢の方が多かったのですが、50代が二人、60代が四人、70代が四人、80代が三人、90代が二人おられました。10週間で二人が亡くなられましたが、私にとって一人ひとりの患者との出会いは忘れられないものとなりました。

それらの患者さんたちとの交わりを通して教えられたことは、ヨブの「裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう」という告白にあるように、死ぬ時は何も持ってゆくことが出来ないということです。どんなに立派な家を持っていても、どれほど豊かな富や業績を持っていたとしても、死ぬ時には私たちは裸なのです。では死にゆくプロセスの中で何が支えとなるのか。患者さんたちが大きな支えとしているのは家族の存在でしたし、友の存在でしたし、面会に来てくれる者たちの存在でした。病いとの闘いや死への恐れと不安の中で支えになるのは、やはり人と人とのつながりであり、愛における絆だということなのです。

先週の敬老主日には79歳以上のメンバーの方に敬老カードをお渡ししました。そこにはコロサイ3:14の「愛はすべてを完成させる絆です」というみ言葉を記させていただきました。私自身、愛が最後はすべてを完成させる絆なのだということを改めて私は患者さんたちから教えられたように思います。私の手を取って「あなたを私の養子にした」と嬉しそうに皆に宣言してくださったおばあさまもおられましたし、研修を終えて日本に帰ることを告げると涙を流して別れを惜しんでくださった方もおられました。たった10週間のつながりでしたが、深い心の絆を形成することができたということは私にとって貴重な体験となりました。家族や友との交わり、愛の絆というものだけが、死に行く生命を支え、守り、死を越えた大きな希望を与えてゆくのです。「愛はすべてを完成させる絆です」というパウロの言葉はまことに真実であると言わなければなりません。最後は愛しかない。

そのような体験と「不正な富を用いてでも友達を作りなさい」という主イエスの言葉を重ね合わせますならば、それは私には「真実の友をあなたの人生の中でできるだけ多く作っておきなさい。なぜなら。友の真実の絆の強さがあなたをどこまでも、たとえ死を越えてでも支えてゆくのだから」と聞こえてくるのです。富は友を作るために、人と人との心をつなげてゆくために用いられてゆく必要があるのです。ルカ15章には放蕩息子のたとえが出てきますが、父親から財産を譲り受けた放蕩息子の過ちは、遠い国に旅だったところにあるのではないと思います。自立のためには親元を離れなければならないからです。そうではなくて、放蕩息子の過ちは富を放蕩三昧のために湯水のように使い果たしてしまったところにあるのです。その富を真の友達を作るために用いていれば、飢饉が起こった時にも事情は異なっていたことでしょう。豚の世話をさせる程度の友達は真の友達とは言えません。

もっと言えば、全財産を賭けてでも真実の友を作ることに価値があるということになりましょうか。「友」と言いましたが、それは「家族」と言い換えてもかまいません。心の通い合った真実の人間関係だけが私たちの生と死を支えるのです。クリスマスキャロルのけちでずる賢いことで有名だった金持ちの金貸しスクルージが、最後にはその富を友を作るために用いて幸福を得ることになったように、私たちのこの地上における、そして天上における真の財産は、友の存在なのです。

主イエスは言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15:12-17)。主は私を友と呼び、その友である私のためにあの十字架の上で自分の命を捨ててくださった。これよりも大きな愛はないのです。十字架の愛は友として示された最大の愛なのです。

「友」とは何か。それを私は「心と心が深く結び合い、通じ合っている関係」と位置づけたいと思います。バベルの塔の後、人間は言葉が通じ合わなくなりました。言葉が通じ合わないというのは心が通じ合わないということでしょう。同じ日本語を話していても心がなかなか通わないのです。それは難しいことです。しかし心を通わせ会うために私たちは召されている。キリストの福音とは私たちの心をつなげてくれる喜びの源だからです。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年9月19日 聖霊降臨後第16主日礼拝説教)