ルカによる福音書 17:1-10
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。2017年に起こること
この度、ドイツに行くことになりまして、ぐずぐずしていましたが、この10月13日(2004年)に出発することにいたしました。ヴィッテンベルクという町のルター研究所(ルターツェントゥルム)の客員研究員(レシデント)という身分でしょうか、各国からいろいろな人が来ております。何をしたらいいのか、6月に打ち合わせに行きましたら、世界の目は2017年に向けられているのに驚きました。1517年10月31日に、マルティン・ルターが、ヴィッテンベルクの城教会の扉に、95カ条の提題を貼り出したのが、宗教改革のはじめです。
2017年は、宗教改革500年にあたりますから、全世界の教会で記念行事が行われるはずです。その手伝いが、ヴィッテンベルクからできないかということのようです。すでに、ルター関係の写真など、展示物もできていますので、日本でも、借り出して、しかるべきときに、宗教改革展を開いてはどうでしょう。
さて、わたしは、アジア担当ということで、徳善義和教授がすっかりおぜんだてをしてくださった後にまいります。しかし、日本などアジアの国では、ルーテル教会はマイノリティーの教派ですし、ルターのこともあまり知られていません。過去の出来事の想起をして、講演会あるいは出版物ですませることもできますが、今日の世界、今日の日本、今日の日本の教会にとって、宗教改革はどういう意味をもっているか。これが明確であれば、記念行事の内容とすすめかたが定まってくるでしょう。
中国で何が起こるのか
このような問いをもっていましたら、帰国する日に、雑誌のコピーが渡されました。それは、ドイツの中国研究家が寄稿したもので、中国の大学で宗教改革史の講座が開かれるであろう、たぶん、マレーシアの中国系のルター学者が、教授として招かれるであろうということです。なぜ中国でルターでしょうか。いままでは、「農民戦争の裏切り者ルター」とレッテルを貼られていたのに、いまや、「勇気と知恵の人ルター」と評価が変わりつつあるというのです。少し、雑誌の記事を補って、広げて考えれば、このようなことになります。
中国の高官のことばとして、中国は、マルクシズムによって建国され、政治体制も、その他の社会制度もすべてあやまりない。しかし、問題は人間にある。人間の腐敗堕落、特に役人に対する贈収賄は、死刑をもってしても無くならない。ここで、宗教がもしかして必要なのではないか。
宗教といっても、どの宗教でもいいというわけではない。キリスト教でなくてはならない。キリスト教といっても、つきつめると、最後は政教一致で、教会が政治を支配するものであってはいけない。
このとき、ルターに注目がなされたのです。ルターは、宗教の領域と政治の領域を分けました。政治の領域も、神からの委託を受けて、教会から独立して、悪を阻み、国民、市民の善を図らなければなりません。政治にかかわり、権力を執るものは、神を恐れるものでなければならないとしたのです。
中国の指導者も、ここに関心をもったのです。共産主義ですから、神とは言わなくても、為政者は、公務員は、天を恐れるものでなくてはならない。国の政治は、つまるところ、権力構造や社会経済の仕組みではなく、人間の問題だということに気づいたのだと言えるでしょう。
日本はどうかと思いながら、2017年に向かう教会の目当てのようなものが、いま漠然と見えてくるようです。
無限大のゆるし
聖書を学びましょう。きょうの聖書日課には、3つのことが並べられています。人をゆるすときには、7回までも、徹底的にゆるさなければならないということ、信仰があれば、カラシ種ほどの小さなものでいい、桑の木を山から海に移すことができる、そして、食卓の給仕として仕えるものは、その仕事を果たしても、感謝を期待せず、なすべきことをしたに過ぎないとせよということです。この3つのイエスさまのことばにどのような連関があるのか、聖書を読むのは難しいですね。
ゆるしについては、マタイによる福音書18章22節では、7を70倍するまでのゆるしが言われています。聖書では7という数字は完全数ですから、完全な、徹底した、無限大のゆるしをイエスさまは言われているのです。3度くらいまではできても、7度はゆるせない、まして7を70倍なんて、考えられない。できないことです。それでは、そういう意味になるのか。
この聖書の箇所は、自分をゆるす側ではなく、ゆるされる側にいて読めばいいでしょう。徹底した完全なゆるしは、イエスさまにしかできないことです。そして、そのゆるしを受けたのは、わたしたちです。このわたしです。
わたしたちのゆるしはせいぜい50パーセント
2週間前の日曜日の日課は、不正な支配人のたとえでした。支配人は、小麦100石を80石に、油100タルを50タルにと、負債をゆるめてやるのです。人がゆるせるのは、せいぜい50パーセントとか20パーセントだということです。これに対して、イエスさまは、100パーセントのゆるしを与えてくださった。神のゆるしの徹底を示してくださっています。わたしたちは、まず、神の完全なゆるしを受けたものとして生きなければなりません。
山を移すほどの信仰
ルカ福音書では、桑の木の移動が述べられていますが、マタイ福音書17章20節では、信仰は山をも移すと言われています。コリント人への第一の手紙13章には、パウロが、山を移すほどの完全な信仰と言っていますから、完全と言われると、これも、わたしたちのもつことのできない信仰ということになります。マザー・テレサの話があります。マザー・テレサが存命中、インドの施設には、全世界から団体で見学者がやってきました。施設のシスターが、その人々に説明する。マザーは、にこにこしてすみに座っていて、しばらくすると、すっと席を離れて消えてしまう。
あるとき、アメリカからのツアーの人々が訪れました。引退してからの人々が多く、熟年の夫婦たちです。例によって、適当な間合いをはかってマザー・テレサが下がろうとすると、ツアーの1人が、「マザー」と呼びかけました。何だろうとふりかえると、ひとりの男性が、「マザー、ひとことでいいからお言葉をください」と頼みました。
マザー・テレサは戻ってくると、みんなを見回して言いました。「男性のみなさん、あなたの奥さまにほほえみを向けなさい」、それから、「女性のみなさん、あなたのご主人にほほえみかけなさい。それだけでいい。それで十分です」。
わたしは、この話が好きで、これだったらできるでしょうと、みんなにすすめてきました。ほほえむことくらい。しかし、むずかしい。これほどできないことはない。わたしなど、こうして、みなさんににこにこして顔を向けていますが、妻に対してはなかなかできません。
パウロは、たとえ山を移すほどの信仰があっても、愛がなければすべて空しいと言いました。桑の木を、山を移すのは、愛なのです。愛の信仰なのです。妻に、夫に、ほほえみさえできないのに、愛がないのに、木も山も移せるはずがない。この完全な信仰は、イエスさまにしかない。わたしたちは、イエスさまの愛に、イエスさまのゆるしに、身を委ねていくほかはありません。
奉仕でなく、給仕に徹する
なすべきことをしたに過ぎないとあります。なすべきことは、仕事です。使命です。役割です。何か任意の、したいときにする奉仕ではありません。聖書は、人間給仕論です。人間の使命について記されているのです。神さまが人間を創造されたのは、人間につとめを、責任を、役割を与えるためです。
創世記のはじめに、植物、動物が造られ、生めよ、増えよ、地に満ちよと言われています。人間も、生めよ、増えよ、地に満ちよと言われていますが、もうひとつ、地を治めよと、神さまから命じられています。
この治めるということばは、支配すると訳してある聖書もありますが、良い王さまが治めることです。良い王さまは、国土を守り、国民をしあわせにします。この治めるには、下から支えるという意味もあります。
他の生物は、自分の種の存続だけ図ればいいのです。人間は、それだけではいけない。神さまの世界を守らねばなりません。クリスチャンであろうとなかろうと、神さまが造り、生かしておられる以上、人間には世界を守る使命があるのです。しかし、聖書では、人は、世界を自分のものにして、破壊していく様が描かれています。神さまが人間を造ったことを後悔するほどに。
選民イスラエルにも使命があります。先祖のアブラハム、イサク、ヤコブの3人に、イスラエルの民を選び出したのは、地のすべてのやからに、全人類に祝福をもたらすのだと神さまは言われました。しかし、聖書を読むと、イスラエルは自分たちの繁栄だけを願い、諸国民へ祝福をもたらすことを忘れた民でした。
なぜイエスさまが来られたか。なぜ、神が人間になられたか、その理由がそこにあります。
神の世界を守るものは、人間の中にひとりもいない。では人間は不用として、神は滅ぼされるか。いや、神は、人間に世界を治めよと命じられた。だから、人間が守らなくてはならない。人間の中にだれひとりいないとしたら、神が人になって、人として、世界を守らなくてはならない。かくして、神であり人である、イエスさまの受肉が必要であった意味がここにあるのです。
イスラエルの民の中に、祝福を全人類にもたらすものはひとりもいない。だから、神がイスラエルのひとりにならなくてはならない。神が人を救うだけであれば、イスラエルの末裔のユダヤ人として生まれる必要はないでしょう。イスラエルに委ねられた祝福をもたらす使命、その使命を、イスラエル人に果たすものがなければ、神がイスラエル人にならなければならない。それは、イスラエルにできないから、神にしかできない。しかし、イスラエルとしてなすべきこと。こうして、神が、マリヤさんから生まれ、人の子として育てられた意味があります。
クリスチャンの使命
神さまの世界を守る使命、すべての地の民に祝福をもたらす使命は、旧約聖書に照らして示されます。それでは新約聖書の民には、どのような使命があるのでしょうか。ヨハネ福音書20章19節を見ると、復活のイエスさまが、家の中に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちに姿を現わします。イエスさまは弟子たちの真ん中に立ち、シャローム、平和があるようにと挨拶される。十字架にかかった主であることを示した後に、また「平和があるように、シャローム」と言われ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言う。
はじめのシャロームと2番目のシャロームは違うのです。はじめのは、夕方なので、「こんばんは」、「やあ、みんなどうだい」と声をかけられたとしていいでしょう。次に、また同じ挨拶をされるはずがない。そうすると、目的語のように理解してはどうか。
「あなたがたに平和があるようにと、父がわたしをお遣わしになった。そのように、わたしも、あなたがたを遣わす」。こうすると、イエスさまがわたしたちのところに来られた目的も、弟子たるものが世に遣わされる目的もはっきりします。新約聖書では、平和は、救いと同義語といっていいくらい大切なことばです。イエスさまの民の使命は、神の平和、神からの平安を人々に運ぶことです。
クリスチャンは3つの使命が与えられています。
人間として、世界を守ること。選ばれたものとして、祝福をもたらすこと。イエスさまに遣わされるものとして、平和を運ぶこと。これは、ボランティアのような奉仕ではなく、給仕のように、そのために生きているものの使命です。仕事のようなものです。
わたしたちには、人に祝福があることが、自分の祝福です。自分がごちそうを食べてしあわせではなく、人に食事を運んで、みんなが満ち足りているのを見て、しあわせ、これが神の食卓のウエイター、ウエイトレスの在り方です。旧約聖書の古いイスラエルは、他のすべての民を忘れて、自分の民族の祝福が神の祝福だとし、誤解してしまいました。
ガラテヤ人への手紙6章16節には、「(新しく創造された)神のイスラエルの上に、平和とあわれみがあるように」とパウロが祈っていますが、わたしたち新しいイスラエル、教会の民は、平和を運ぶものです。祝福をもたらすものです。守りを果たすものです。守り、祝福、平和、この3つをもって、どこへも赴きましょう。いつでも、こころがけておきましょう。何をしていても、この3つを祈りましょう。自分のためでなく、自分も含めて、まず身近な人々のために。
信仰は、イエスさまを見えるものにする
信仰は、あるかないか、見定めにくいものです。からし種ほどのものか、それでも、山を移せるようなものか。しかし、この仕えること、給仕することによって、信仰は、すこしは確かめることができるようです。守り、祝福、平和、この3つをたずさえて生きるときに、なんともいえない平安につつまれますから、だいじょうぶです。イエスさまの無限大のゆるし、絶大の愛に包まれるからです。
中国に注目しよう
はじめに述べた中国の動向、もし、ほんとうに宗教改革の研究、ルターの研究がはじまれば、中国はおそろしい国だなと思います。そして、すばらしい国だとも感じます。日本は、戦後60年、経済成長をとげてきましたが、天をおそれない政治家が上に立ちつづけてきました。人間のことはふり捨ててきたのです。いま、経済成長に向かっている中国で、指導者たちが天を仰ぎ、天をおそれて政治を行なうとすれば、大きな差が、日本と中国の間に起きてくるでしょう。
日本の教会はどこに向かうのか
2017年というのは、よい機会です。ちょうどいい時間の長さで迎えます。すぐ来ますが、迎える準備はできる。ヴィッテンベルクに、日本からも研究者を招きたいと考えています。1年、2年という長期の留学は、向学の志があっても、なかなかできません。3カ月、あるいは1カ月でも、たとえば牧師が教会から休暇をもらって、勉強に行けたら、そしてその人がこれを数年くりかえしたら、論文もできるでしょう。
旅費だけ工面していただければ、現地での滞在は心配いらないようにできないかと、いっしょうけんめい考えているところです。しかし、2017年に向かってですから、ヴィッテンベルクでは、ルターの研究をしていただきたい。それも伝道的なルター研究をということです。
宗教改革には、いまでいう内国伝道、外国伝道はなかったという学者もいますが、ルターを見ていると、説教が伝道だったと言えます。ヴァルトブルクの城に幽閉されていたルターが、ヴィッテンベルクに戻って来ると、1週間、毎日の説教で、市民を落ち着かせました。
宗教改革の教会は、説教と礼拝です。これで十分です。しかし、それが伝道的であるかどうかです。
現代の宗教改革は
そこで、第1に、2017年に向けて、説教改革がなされねばならないでしょう。これは、牧師の責務です。牧師は、みことばを運ぶ給仕ですから。第2に、礼拝改革です。これは、礼拝の伝統的なやり方を変えることではありません。式文を廃止したり、現代的にすることではありません。信徒の礼拝参加の姿勢を改めることです。
わたしは、ルーテル教会を出て、6年半、巡回伝道をしました。その後、3年間、大阪の単立教会で牧師として在りました。5カ月間、牧師のいない、堺市の小さな教会で留守番牧師をしました。いつでも、どこでも、わたしは慰めを語ってきました。天からの慰めです。みな喜んで耳を傾けてくださったと思います。ある友人は、「森節」(もりぶし)だと言いますが、わたしの説教にほっとするとか、よく分かるとか、自分でも「聞かれている、効いている」という感じでした。
ただ、ひとつのことを感じました。それは、礼拝に参ずる人々の中に、悔い改めがないことを強く感じたものです。たとえば、日曜日、礼拝に出る前に夫婦げんかをする。帰ってから、けんかの続きをやるという具合です。
教会の信徒総会など、たいてい礼拝後に行われています。そこが、まるでイエスさまのゆるしを知らない人々、自分の大きな罪を無限大にゆるされたものとしての悔い改めがない、雑多な群れの集いになりがちです。礼拝の後ですから、これはどうしたことでしょう。
そこで、礼拝の改革というときは、信徒が、悔い改めをもって礼拝に臨むこと、主の前に恥じ入りながら、悔い改めたものの集う礼拝、これほど伝道的な雰囲気と力をもった礼拝はないでしょう。ここから、新しい教会の動きが、うねりが、2017年に向かってわきあがるのではないかと、夢見るものです。
主よ、われをあわれみたまえ
ロシアの隠者の話があります。あるお百姓さんが、祈りとは何かと聞きに隠者を訪ねます。最高の信仰的境地に達したと思われる隠者は、祈りとは、「主よ、我をあわれみたまえ」それにつきる。ただ、これを唱えよ。その祈りの量が、やがて質に変わると教えます。(サリンジャー、『フラニーとゾーイ』、新潮文庫)。わたしも、いま祈れることは、ただ、「主よ、わたしをあわれんでください」ということだけです。特に、礼拝に出席するときに、主のゆるしを乞いながら、そして、礼拝の後に、ゆるしの恵みを感謝しながら、生かされてありたいと祈っているものです。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2004年10月3日 聖霊降臨後第18主日礼拝説教
伝道ブックレット『エルベ河のほとり』より転載。タイプ起こし:石垣通子姉)