ルカによる福音書 17:11-19
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。「らい病」という表現について
本日与えられました福音書の日課は、先ほどお読みしたルカによる福音書17章11節から19節までの「重い皮膚病を患っている人を、イエス様が癒される」物語であります。もしかしすると、みなさんのお手持ちの聖書の中には「重い皮膚病」が「らい病」と表記されている聖書があるかもしれませんが、この言葉は1997年度版の日本聖書協会の聖書より「らい病」から「重い皮膚病」へと変更されています。これは、皆さんの記憶にも新しい1996年のらい予防法撤廃を受けての変更だと思われます。
そもそも「らい病」はラテン語では「レプラ」と言い、いやしまれる者という語源だそうですし、漢字でも「やまいにたよる」と書き、自らのやまいにたよって物乞いなどをしながら生きていく者という蔑称でありました。今日では「らい菌」を発見したノルウェーのハンセンの名をとって「ハンセン病」と言われるのが一般的であります。
臨床牧会訓練での経験
さて、私は神学校最終学年の授業で臨床牧会訓練というカウンセリングの授業をとっているのですが、この授業で週に一度、木曜日に清瀬にあるハンセン病患者のための国立療養所、多摩全生園で、まる一日をかけて実習をさせていただいております。その実習の内容は、入所されている方の病室やお宅に伺い、お話しをさせていただくといった単純なものです。そもそも信頼関係から構築していかなければならない実習なのですが、それでも、初めて会った若者にご自分の生い立ちや現在の心境を語ってくださる方もいて、斷られてもお話しをさせていただいても、私にとっては「よい出会い」が与えられる貴重な実習であります。そんな実習の中、先週の木曜日にAさんのお宅を訪問した時に、Aさんはカトリックの信者なのですが、聖書の話しになり、聖書が改訂されて「らい病」という表記が「重い皮膚病」に変わった事について、Aさんは私にこのように語ってくださいました。
「新共同訳聖書になって、言葉が色々かわったけど、小泉さん、私はねぇ、もちろん間違った言葉遣いかもしれないけど、『らい病』は『らい病』のままでいいと思うんだよね。だってそうでしょう、あの言葉は僕たちに向けて語られている言葉なんだから、イエス様が僕たちを救ってくださるっていう言葉なんだから。それを『重い皮膚病』にしちゃうとねぇ、なんだかはぐらかされてるような気になるんだよね。人間の罪のせいで僕たちがこの病気になったかどうかはわからないけど、今僕がこの病気になって、ここにいるっていうことは、神様の栄光を表わすためだと思うんだよね、そのために僕たちが存在していると思うんだよねぇ、間違っているかなぁ、僕の言っていることは・・・。」
このAさんの言葉、Aさんの信仰告白の前に、私は「はい」とも「いいえ」とも言えず、ただただうつむいてAさんの言葉に耳を傾けることしかできませんでした。伝染病という間違った診断をされ、発病後の症状から、隔離され、人によっては戸籍も抹消され、ふるさとに墓までつくられ死んだ者とされ、社会の中で生きることをゆるされなかったハンセン病の人々が歩んできたこれまでの歴史を思うと、こんな私がAさんに対して何を語れるというのか、何ができるというのか、そのような思いで胸が一杯になり、ただただうつむき耳を傾けることしかできませんでした。
聖書におけるハンセン病
さて、福音書の物語に目を向けますと、この出来事はイエス様がエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの間の村を通られたときに起こります。登場人物はイエス様と10人のハンセン病を患った人達。きっとイエス様の周りには弟子や群衆が大勢いたでしょうが、物語はこの11人で構成されます。旧約聖書を読みますと、ハンセン病や重い皮膚病を患った人についての規定や彼らが登場する物語を幾つか見つけることが出来ます。レビ記13章45節以下には次のように記されています。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」とありますし、列王記下の7章3節以下には、重い皮膚病を患っている人々が一緒に宿営の外で暮らしていた物語が記されています。
こういった彼らをとりまく状況は、数百年たったイエス様の時代も変わっておらず、彼らは村の入り口で日々過ごしていたのでありましょう。そんな彼らの耳にイエス様が村に向かっているというニュースが飛び込んできます。ルカ福音書には、死んだ人を生き返らせたり、病気を治したり、様々な奇跡を行うイエス様の物語が記されていますし、5章12節に記されている、彼らと同じ、重い皮膚病を患った人を癒された出来事は、彼らの耳にも届いていたでありましょう。10人のハンセン病の人達は、ずっとイエス様を待ちつづけ、姿が見えると、決して近づこうとはせず、遠くの方から、「わたしは汚れた者です、汚れた者です」という言葉に続けて、ありったけの声で、心の底から叫びます、「私を憐れんでください」と。
この叫びは、彼らのこれまでの人生を賭けた言葉でありました。発病し、宿営の外に追いやられ、さげすまれ、自分自身が「汚れたものである」ということを表明しなければならない、同じ病を持つ者同志で助け合うしかない、社会の中で生きることをゆるされなかった人達の、最後の望みをかけた、精一杯の言葉でありました。
そんな彼らの言葉に対して、イエス様はそばに近寄るでもなく、手を差し伸べるわけでもなく、ただ「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われます。旧約聖書のレビ記14章には、重い皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示が克明に記されており、病が治った事を認めてもらい社会に戻るために、まず祭司たちに調べてもらい清めの儀式をしなければならいとあるので、彼らは直接、その瞬間に自分たちの病が癒されたわけではなかったものの、イエス様の言葉どおりに祭司たちのもとに向かったのでありましょう。そして彼らの叫びは、生きる望みは、イエスの耳に届き、10人が10人とも、祭司のもとに向かう途上で癒され、清くされます。
戻ってきたサマリア人
もしこの奇跡物語が、この14節で終わっていたのなら、劇的なクライマックスを期待する人にとっては、なんとも拍子抜けな癒しの物語のようにも思えますが、物語は後半部分へとつづきます。いやむしろ、本日の日課は、ここから、中心部に入っていくと言えます。祭司のもとに向かっていた一人の人が、自分の病がいやされたのを知って、神を賛美しながら、神に栄光を帰しながらイエス様のもとに戻ってきます。10人が10人とも病を癒され清くされたにも関わらず、たった一人だけが、しかも16節になってはじめて明らかにされるのですが、たった一人、サマリア人がイエス様のもとに戻ってきたのです。残りの9人、彼らはたぶんユダヤ人であったと思われますが、彼らのその後について聖書は何も語ってはいません、もしかすると、祭司たちのもとに行ってはじめて、自分たちが清められたことを知り、改めてイエス様のもとに戻ってきたかも知れませんし、清められた後、村の外ではなく中に戻り、イエス様のことを村中のユダヤ人たちに言い広めたかも知れません。しかし、聖書はそれらのことに触れようとはせず、ただ一人、イスラエルの救いの外にいた異邦人であるサマリア人だけが戻ってきたことを記します。このサマリア人にしても、もしそのまま祭司の所にいったとしても、異邦人としてさげすまれ、うとまれていた彼が、祭司との謁見をゆるされるはずもありませんし、癒されたからといって、残りの9人と一緒にガリラヤの村に入れるはずもありませんが、その事に関しても聖書は触れようとはしません。
ユダヤ人の視点から見れば、どこまで行っても自分たちの外に位置するサマリア人たった一人にスポットライトが当たるのです。
神を賛美しながら帰ってきたサマリア人は、イエス様の足下にひれ伏し感謝を捧げます。そしてイエス様は、足下にひれ伏したサマリア人に対して「立ちあがって、行きなさい」と語りかけます。さげすまれ、外に外に追いやられたきた、生きることを他の人々に否定され続けてきたこのサマリア人のこれまでの人生は、きっと、うつむき、下を見ながら生きてきた人生であったでありましょう。イエス様に癒しを求めて心の底から大声で叫んだときも、自分から近づこうとはせず、ぼんやりとイエス様の輪郭が見えるくらいの遠いところから叫び、病が癒され、清められ、神を賛美しながらイエス様のもとに帰ってきても、感謝のあまりイエス様の顔を直視することも出来ず、ただ足下にひれ伏すことしか出来なかった彼。そんな彼に対し、イエス様は「立ちあがって私の顔を見なさい、そして前を向いて行きなさい」と言われるのです。
「あなたの信仰があなたを救った」。この言葉によって、他人からも、また、自分自身も生の外側を、下を向いて歩まなければならないと思っていた彼の人生が、イエス様との出会いにより180度変えられました。前を向いて歩んでいいんだ、イエス様を見つめながら生きていいんだ、イエス様の目が常に自分に注がれており、その憐れみの内側に生きていることを知らされた時、彼は救われ、彼の人生は変えられたのです。
彼の病は、他の9人と同じように、イエス様の憐れみによって癒されました。しかし、彼の人生は、イエス様を見つめることによって、そんな彼の信仰のによって救われたのではないでしょうか。
初めにお話しした、多摩全生園のAさんと、この人生を変えられたサマリア人の姿がだぶってしまうのは、私の自分勝手な思い込みでしょうか?
私はハンセン病という病と戦い、まわりの人達の目と戦いながら生きてきたAさんの苦しみや嘆き、痛みを知ることはできません。しかし、Aさんの口から出るイエス様にたいする信仰の告白から、また、サマリヤ人がイエス様の足下にひれ伏し感謝を捧げる姿から、私たちの憐れみを求める祈りや、心からの叫びが常にイエス様の耳に届いていることを教えられているのではないでしょうか。どのような苦しみや痛みにさいなまれても、悲しみの淵に立たされようとも、イエス様は私たちを見つめてくださっている。イエス様の視線の内に生きている。そんなイエス様の視線に気づき、イエス様と出会い、祈り叫び続け、私たちの祈りと叫びを聞いてくださる方が、見守ってくださる方が、私たちと共におられることを信じ、立ちあがり、前を向き、イエス様を見つめていく限り、賛美をささげていく限り、私たちの人生は常に変えられていくのです。
「立ちあがって、行きなさい」このイエス様の言葉に感謝し賛美を捧げながら、これからはじまる1週間を過ごしてまいりましょう。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2001年10月14日 聖霊降臨後第19主日 礼拝説教)