ルカによる福音書 23:26-49
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。受難主日
本日は通常は受難週の最初の日として「枝の主日」「棕櫚の主日」、つまりイエスさまがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたことを覚える主日として守られることが多いのですが、本日は受難主日として十字架のキリストに焦点を当てて、特にイエスと一緒に十字架にかけられた二人の罪人に焦点を当てながら、私たちにとっての十字架の意味についてみ言葉に聴いてまいりたいと思います。蒔田きみ姉のご召天
いつも一番前の席で説教を聴いておられた蒔田きみ姉が4月2日(月)の深夜、90歳でこの世のご生涯を終えられました。讃美歌「いつくしみ深き友なるイエスは」を歌い、み言葉を読み、お祈りを捧げ、祝福をして数分後に、安らかに息を引き取られました。その時にうっすらと開けられた目には涙をためておられました。私は牧師として人の死に立ち会うたびに思います。最後の瞬間に至っても、すべてを委ねることができるお方を持っていることは本当に幸いであると。「今日、あなたはわたしと一緒に楽園にいるのだ」とイエスさまは十字架上で横に並ぶ罪人の一人に告げられました。この言葉はルカ福音書にしか記されていない言葉ですが、死を前にして私たちに本当の希望とは何かということを教えてくれる言葉であり、本当の希望を与えてくれる言葉です。それは神さまにしか語ることができない言葉です。だれが目前の死を見据えながら、死を越えたいのちについて語ることができるか。人間には語ることは不可能です。それはみ子なる神、イエスさまだけが語り得た言葉である。
「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。死は終わりではない。死の向こう側にはキリストと共なる命が待っている。神のパラダイスが待っている。これこそ揺らぐことのない希望なのです。主は愛する兄弟ラザロを亡くして嘆くマルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25-26)。
信仰者として90年のご生涯を最後まで忠実に走り抜いた蒔田きみさん。そのご生涯は決して楽なものではありませんでした。明治44年に水戸市にお生まれになられた蒔田さんは、やがて昭和薬科専門学校(現在の昭和薬科大学の前身)に入学。アメリカ人宣教師の運営する四谷女子学生寮に入り、そこでキリスト教の信仰を与えられます。1928年5月に四谷パブテスト教会で受洗。17歳の時でした。1963年よりむさしの教会の会員として信仰生活を送られました。むさしの教会員の池宮裕さんが子供の粉ミルクを蒔田さんの経営する薬局に買いに行かれたのがこの教会に来るきっかけとなったと伺っています。15年ほど前に東京老人ホームに入所。ここ10年ほどは毎朝、老人ホームで守られる朝の礼拝の司会を一日も欠かさずに担当してこられました。私も一月に一度、老人ホームで説教奉仕をさせていただいておりますが、いつも蒔田さんの開会の祈りと説教の後の主の祈り直前のひと言に励まされ、支えられてきたように思います。
蒔田さんの人生は戦争によって大きく変えられた人生でもありました。ご主人との結婚生活は5年ほどで終止符が打たれ、ご主人は南方で戦死なさいます。幼かった三番目の女の子もやがて病死。どれほどお辛いことであったか。そして女手一つで残されたお二人のお嬢様を、薬剤師として働きながら育てられました。下のお嬢様は7歳から15歳までの間、ご親戚にお預けになるという苦渋の決断をもなされたことは後々まで大きな悔いを残されたようです。蒔田さんはお子さまやおまごさまのことを何よりも案じ、ずっと祈りつづけてこられた祈りの人でもありました。旅行や山歩きをこよなく愛され、礼拝に出かけることも大切にされていました。健康に悪いことは何一つなされなかったともお聞きします。
言葉もままならぬ中でお嬢様の五十嵐陽子さんに残された最後の言葉は、「神さまは不思議な力を与えてくださいます」という言葉だったそうです。そしてしっかりと娘さんの手を握りしめられた。これは17歳で受洗して73年間、キリストのみあとに従い続けた蒔田さんのご生涯を締めくくるのにふさわしい証しの言葉であったと思います。神さまからの不思議な力をいただいて、蒔田さんは苦しみも悲しみも乗り越えてこられたのです。そのことをどうしても娘さんやお孫さんたちに伝えておきたかったのだと思います。神さまは本当に不思議な力を与えてくださいます。蒔田さんが愛唱聖句として記されたのは、ガラテヤ2:20とヨハネ14:1のみ言葉でした。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(ヨハネ14: 1)
このようなみ言葉を信じ、み言葉にすべてを委ねてゆくことができる者は幸いであると言わねばなりません。
<十字架~無意味さと罪と死の苦しみからの解放>
本日は受難主日。今週は受難週です。イエスさまが十字架におかかりになられたことを覚えて祈る一週間です。水曜日には証し会、木曜日には過越の食事による礼拝、金曜日には十字架の七つの言葉による礼拝を行います。次の日曜日はイースターの喜びをご一緒に分かち合う洗礼・転入・聖餐礼拝となります。
イエスさまが十字架にかかってくださったことは、受肉と復活という出来事と切り離すことはできませんが、私たちを三つの次元において救い出すためでした。すなわち、(1)無意味さの苦しみ、(2)罪の苦しみ、そして(3)死の苦しみから私たちを救い出すためでした。
(1)無意味さの苦しみ というのは、「空の空、一切は空である」と告げる旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道の書)において明らかなように、どこに生きることの価値があるのだろうかという人生の意味を求めての苦しみです。「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された」とヨハネ3:16にあるように、私たちは神の愛の中に神のかたちとして造られている。神の愛が私たちの中に価値を創造してくださるのです。アガペーの愛は新しい命を創造する力なのです。
パウロは当時ギリシャ語で愛を意味する「エロース」や「フィリア」という言葉をあえて避けて、神の愛を「アガペー」という言葉を使って表しました。それによって神の愛と人間の愛との本質的な差異を示そうとしたのです。人間の愛は価値あるものにしか向かわない愛ですが、神の愛は新しい生命を創造する愛だからです。例えばこの花のことを考えてみましょう。私たちは花は美しいから愛する。人間の愛は美という価値を持つから花を愛するのです。枯れてしまえば私たちの愛は別のものに移ってゆきます。しかし神さまのアガペーの愛は違う。枯れた花にもう一度生命を与え、花を咲かせてゆくような愛なのです。神の愛とは、人生の無意味さに苦しむ私たちに、十字架を通してもう一度意味を与えてくださるような愛なのです。
(2)罪の苦しみ というのは、歳を取ってくると、あるいは体が弱ってきて病気になって入院などすると、自分の人生を振り返り、あの時ああしなければよかった、こうすればよかったと懺悔したい気持ちになるもののようだからです。過去を振り返って様々な罪責感に苦しまされる。過ぎてしまったことは元には戻らない。悔やんでもどうしようもないと分かっていても、それが頭にこびりついて離れなくなる。そのようなことが起こるのです。
主イエスと一緒に十字架にかけられた二人の罪人も同じだったと思います。しかし一人はイエスをののしることで最後までその気持ちをごまかし続けました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と叫ぶことで彼は自分を見つめることをしなかった。彼は責任転嫁に逃げることで、キリストと出会うことができなかったのです。しかし、もう一人の罪人は自分自身を見つめています。自分の犯した罪深さにおそれおののいている。ののしる仲間をたしなめている。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして主に向かって願うのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。すると主イエスは言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。
死を目前にした絶望的な状況の中で、彼には死を越えた言葉が与えられた!そこでは (3)死の苦しみからの解放 が出来事として起こっている。「はっきり言っておく」というのは、「アーメン、わたしはあなたに言う」という言葉です。「あなたに神の真実を語る」という意味です。この言い方は、イエスさまが最も大切なことを語る場合に使われています。死を前にして楽園の希望が語られている。絶望の中に残る希望があるとすればこれしかない。イエスさまの言葉しかないのです。
「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいるであろう」
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。この言葉がどれだけ多くの死にゆく人に希望を与えてきたことか。「死は終わりではない。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいるのだ。わたしがあなたを守る。あなたはわたしのものだ。安心しなさい。恐れるな。わたしがあなたと共にいる」。ここに私たちの本当の羊飼いがおられる。「主はわが羊飼い。私には乏しいことがない。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われる。たとい死の陰の谷を歩むとも災いを恐れません。あなたが私と共におられるからです」と詩編23編が歌うように、私たちは死の陰の谷をゆくときにも共にいてくださるお方を知っているのです。
「神さまは不思議な力を与えてくださいます」と語って、すべてを主に委ねてゆかれた蒔田きみさんを私たちは覚えました。青山四郎先生や松之木よし子さん、あるいは皆さんがお座りになっている長いすを作られた熊井七郎さんなど、桜の季節になると思い起こされる信仰の諸先輩たちもおられます。そのような信仰の先輩方は皆、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と告げてくださった主イエスさまに信頼し、罪のただ中に赦しを、死のただ中に命を、悲しみのただ中に喜びを、絶望の中に希望を見出して、すべてを主に委ねてゆかれたのです。私たちもまた、主のご受難を思いながら、この一週間を過ごす中で、十字架の上に語られた七つの救いの言葉を心に刻みたいと思います(教会讃美歌86)。
お一人おひとりの上に神さまのお守りがありますように。悲しむ者の上に神さまの慰めがありますように。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2001年 4月 8日 受難主日礼拝)