ヨハネによる福音書3:13-21
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。序. 私の好きな聖句
今朝は武蔵野教会にお招きいただき、ありがとうございます。聖書箇所にありますヨハネ福音書3章16節は、私のたいへん好きな聖句です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。《この短い御言葉の中に、私たちに対する主の御旨が、そして福音が凝縮されているからです。主はどれほど私たちに永遠の命を与えたいと祈っておられるか、御言葉に聞いてまいりましょう。2.永遠の命を得よ
今日の聖書箇所には同じ言葉が二度繰り返されています。15節にあります「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。《そして、続く16節にも「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。《神がそれほどまで私たちを愛されている、最愛の息子の命と引き換えにしてまで、罪ある私たちを救いたい、それが今日の福音のメッセージなのです。「主イエスを信じる者が、一人も滅びることなく永遠の命を得る《、そのために主イエスは天から降り、そして天に上げられました。天から降るとは主イエスが受肉され、私たちと同じ人間となられたということです。神学校の鈴木浩先生の言われた言葉で言いかえるなら、赤ちゃんであるイエスはこの世に生まれウンチもすればおしっこもする、そして抱けば御乳の匂いもすることなのです。このように伺った時、受肉されたという意味が私にとってストンと腑に落ちました。主イエスは神と同質なのに、私の周りにいる赤ちゃんと同じようにこの世に生まれた、そのことを事実として感じたからです。神と主イエスに対立するこの世に、神は主イエスを降されました。主イエスは私たちの低みの極みまで降りてくださいました。私たちはその救いの恵みの大きさを、今改めて確かめています。もし主イエスの十字架による贖いがなければ、私たちに罪からの救いはないからです。
また主イエスが天に上げられることは、神の力が働いて初めて独り子として天に戻られます。つまり、主イエスは天に上げられたことから、神と同質であるとはっきり分かります。神の子が私たちの救いのために、本来罪のない方なのに、私たちの罪を代わって贖うために、この世に遣わされました。旧約聖書の時代には、さまざまな献げ物をすることが記されています。人間が自分の罪のために自らの命で償うべきところを、代わりの生贄を献げることにより、命を献げることから免れました。現代に生きている私たちを罪から救うために、主イエスは自ら十字架にかかられ、生贄として贖いのため献げ物になられました。この四旬節の季節に、イエス・キリストの十字架の死によってのみ、私たちに救いがあることを、改めて心に刻んでおきたいと思います。
3.闇に留まる
しかしながら、18節に「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は裁かれている。神の独り子の吊を信じていないからである《とあります。それまで、永遠の命を得るために招かれていると語られてきたのに、私たちには何かドキッとする言葉に聴こえます。果たして私たちは本当に主イエスを信じている者とされているのだろうか、そんな思いがふと湧き上がります。それは主イエスが来られて、信じる者か、信じない者か、私たちは何者なのだろうか、そのような問いの前に立たされています。その鍵がヨハネ福音書1章12~13節にあります。「言葉〔主イエス〕は自分を受け入れた人、その吊を信じる人々に神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。《私たちが生まれたのは、自分の力によるものではなく、神によってのみ可能なことです。私たちが今生きているのは、神から与えられた命の恵みがあって初めて、造られた物として存在しています。
また、神を指し示す主イエスの前に、私たちは罪人であり、私たちは闇の中にいる、そこが出発点になります。光が闇を暴くのは、裁きのためではありません。闇に留まっている頑なさに気づかせるためです。私たちが自分の力で永遠の命を得ようとするならば、却って闇にある滅びに向かいます。そして、神の導きがなければ真理に出会えないと知らされて、私たちは闇から光に戻る道を見出せます。
ルターは人間をこのように譬えます、人間は馬車であり、その御者には悪魔が座っています。ですから、主イエスが悪魔の代わりに御者になってもらわないと、私たち馬車は闇に向かって進む外ありません。私たちは光を求めて、主イエスに取って代わってもらいたいと願っています。
では私たちはどうしたらいいのでしょうか?私たちは主イエスを知るまでは、罪人であるとの自覚はありません。本来罪人である私たちが、主イエスを知ることから変えられていく、それが信仰のなせる業です。ですから、主イエスと出会ったのに、光を求めずに闇に留まるなら、主イエスが再び来られる時ではなく、たった今裁かれていると語ります。しかし、主イエスの永遠の命への招きは、すでに光の中にいる人たちだけでなく、闇に留まる人たちにも語られています。なぜなら、主イエスは、私たちの滅びを黙ってみていられない方で、私たちが一人も滅びないで永遠の命を得るためにこそ、この世の送られた方だからです。
4.光に戻される
主イエスが私たちを救いに招かれると聞くと、私はある聖書カードの絵を思いだします。大垣教会のボーマン夫人からいただいたものです。主イエスは夜ランプを掲げて家の前に立たれ、扉をコツコツとノックされています。その扉には外から開く取手が付いていませんので、主イエスは辛抱強く諦めずに扉を叩き続けられます。主イエスの救いの招きは、主イエスを受け入れる者だけでなく、まだ主イエスを知らない人たち、そして受け入れていない人たちにも、向けられています。ですから、今は扉を内側から開かない人たちも、主イエスの招きにいつか応答するようにと、祈りながら扉を叩かれています。私たちは、主イエスとの出会いを通して信仰に招かれ、主イエスが救い主であると真理に導かれます。しかし、私たちが主イエスを知るということは、それほどたやすいことではありません。それでも、主イエスを知ることから、私たちが新しく変えられていきます。それが、主イエスから与えられる信仰であり、私たちも応答して信じる者とされます。主イエスと出会って変えられた人物として、ユダヤ人の議員ニコデモを覚えていらっしゃるでしょうか。今日の福音の日課は、そのニコデモとの会話に続いている結びの部分になります。彼は夜ひそかにイエスを訪ねて、救いについて、新たな生まれ変わりについて、話し合ったユダヤ人の指導者です。この時主イエスは彼に、「人は新たに生まれ変わらなければ、神の国を見ることはできない《(3:3)と言います。しかし、彼はその本当の意味を理解できないで、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう《(3:4)と返します。主イエスが議会で欠席裁判のように非難された時、ニコデモは本人から事情を聞くべきと正当な弁護をします。また、主イエスの遺体を十字架から降ろした時、彼は埋葬の準備をして駆けつけます。彼は主イエスと対立する共同体に属して、初めは主イエスを頑なに受け入れませんでした。しかし、ニコデモは少しずつ変えられ、最後に主イエスがどなたであるか知り、尊敬の念を持つようになります。このようにして、主イエスはニコデモを招き続け、十字架の死から彼の闇に光を届けました。
主イエスは光がこの世に来たのに、自分を受け入れないなら、光よりも闇を好むと言われます。しかし、主イエスは私たちが受け入れるまで、諦めず辛抱強く待たれています。私たちは自分の力では変わることはできませんが、主に頼り委ねることから変えられていきます。独り子イエスをこの世に与えられたほどに、私たちを愛されている神の御旨を、私たちは知っています。私たちは自分の力では変われなくとも、主イエスの力をいただいて、必ず信じる者と変えられます。そのために、主イエスはランプを手にされ私たちの家の前に立たれ、その扉をコツコツと叩き続けられています。主イエスから照らされる光を受けて、永遠の命の恵みをいただきたいと思います。
結び.武蔵野から派遣される
私の好きな先ほどの御言葉「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。《このことを伝えるために、私はこの春から牧師とされて、九州の教会に派遣されます。神が最愛の独り息子を十字架の死に送ってまで、私たちを罪から救われるとは、どれほどの痛みがあってなされたことでしょう。もし私たちが同じ立場になったとしたならば、とても私たちにはできないとしか言いようがありません。神はそれほどまでに慈しまれるのに、主イエスが神と私たちの和解のために降られたのに、残念ながらまだ主イエスに出会っていない人たちが大勢います。主の御旨を誰かが伝えなければなりません。私は破れも欠けもある者ですが、器として用いてくださるなら、私を遣わしてくださいと願っています。主の助けをいただいて、精一杯の働きをいたします。これまで武蔵野教会で、私は皆さまとの交わりによって育てられました。また、賀来周一先生、ルーサー・キスラー先生、石居基夫先生、そして大柴譲治先生の説教に養われてきました。今まで私が受けた恵みに心から感謝して、これからは私が少しでもお返しをしたいと願っています。皆さまの御祈りとお支えに心から感謝して、この武蔵野教会から鹿児島教会へ、阿久根教会へ行ってまいります。
祈り
ひと言祈ります。 恵みの神よ、あなたは私たちが永遠の命を得るため、独り子イエスをこの世に送られました。この大いなる恵みに、心から感謝をいたします。この世にはあなたの福音をまだ知らない人たちがいます。どうか、主イエスを宣べ伝える働きに、私たちひとりひとりを用いてください。主イエス・キリストのみ吊によって祈ります。アーメン。おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2009年2月22日 主の変容主日礼拝説教)
(小山茂牧師は、武蔵野教会出身の神学生として日本ルーテル神学校に学び、2009年3月8日に日本福音ルーテル教会教職按手を受け、4月1日より鹿児島・阿久根教会での働きを始められることになっている)