ヨハネ福音書 4:5-26
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。「なぜか胃がビクビク動くんだよね」
神学校最終学年の1985年9月に、私は聖路加国際病院での臨床牧会訓練(Clinical Pastoral Education、以下はCPEと略)に参加しました。それは三週間、病棟の患者さんを訪問して逐語会話記録を書き、それを四人のピア(仲間)グループ(そこにスーパーヴァイザーと一人の補佐が加わりました)の中で分かち合うということが毎日続くしんどい訓練でした。会話記録を分析してゆくと、そこに私自身の姿が映し出されてゆくのです。なぜ相手の気持ちをキチンと受け止められないのか、なぜそこから逃げようとしているのか、なぜ相手を操作したり相手に自分を押し付けようとするのか等々、会話記録をチェックしてゆくとその背後にある自分自身の思いが鏡に映し出されるように明らかにされてゆくのです。それは驚きの体験でもあり、打ち砕かれるような体験でした。私はそれまでにいのちの電話の傾聴訓練を一年と三ヶ月受けていましたし、神水教会でのインターンも終了していましたので、ある程度は他者とのコミュニケーションができていると思っていたのです。それゆえに尚更、それができていない自分の姿を示されたのはショックでした。その時のスーパーヴァイザーは聖公会の司祭であり、聖路加国際病院のチャプレンでもあった井原泰男先生でした。私自身はその時、スーパーヴァイザーに対して複雑でアンビヴァレントな思いを持ちましたが、結局そのCPEで示された自己の課題と取り組み続けてきたように思います。その意味で聖路加病院での体験は忘れることができないものでありました。
私にとって最も印象的だったのは、井原先生が雑談の中で言われた言葉でした。「僕はね、患者さんと話していて大切なところに来ると、なぜか胃がビクビク動くんだよね」。そのような聴き方があるのかと驚かされました。その時初めて、「そうか!はらわたがよじれるような聴き方というものはこのようなことを言うのか」と何かストンと腑に落ちたような気がしたのです。頭ではなくはらわたで聴くということ。福音書の中にはイエスさまが「飼い主のいない羊のような群衆を見て深くあわれまれた」という箇所がありますが(マタイ9:36)、そこで「深く憐れむ」とは「はらわたがよじれるほどの断腸の思いをする」という語が使われているのです。それは人々の苦しみを主がご自身の内蔵で、つまり存在の中心で受け止め、引き受けられたということです。井原先生の「胃がビクビク動く」という表現はそれと同じと思いました。
人間が実際にそのような深く共感的な聴き方が可能なのだということは、私にとって一つの天啓であったと思います。そして、そのようになりたいが果たして本当にそうなりうるのか、という思いを持って今までの22年を歩んできたのでした。最近になってようやく「はらわたで聴く」ということが少しずつ分かってきたような思いがしています。胃がビクビクと動くということはまだないのですが、はらわたにズンと響くような思いがすることがあります。
ヤコブの井戸のほとりにて
本日の福音書には主と一人のサマリアの婦人とのやりとりが記されています。この部分を読むたびに私は、これは逐語会話記録として実に優れたものだと思います。イエスさまはこの婦人の深いところの思いをしっかりと受け止めながら、さらに中心的な事柄を、それはその婦人の奥底にある魂の渇望というものだと思いますが、その婦人が自覚していなかったその深みまでを明らかにしているからです。場所はヤコブの井戸のほとり、時は正午頃でした。イエスさまは旅に疲れて喉が渇いておられました。行く先々で人々の苦しみに対して深い共感を示し、癒しを行い、力の言葉を語ってこられたからでありましょう。そこに一人のサマリアの女性が水を汲みに来ます。その女性にイエスさまが「水を飲ませてください」と頼んだところから物語が展開してゆきます。この言葉はシンボリカルなものであると思います。十字架の上で主は「わたしは渇く」と叫ばれました(ヨハネ19:28)。主は私のために十字架にかかってくださったが、私は主のために何をなすことができるか、ということを考えさせるからです。そのことを心に留めながら、もう少しこのやりとりを見てまいりましょう。
このサマリアの女性は正午ごろ、日差しの熱いうちに水を汲みに来ました。パレスチナは陽射しが強いですから通常水汲みは朝夕の涼しい時に行われます。そのことからもこの女性が人目を避けてこの井戸に来ていることが分かります。なぜか。やがてその理由はイエスさまとのやりとりの後半部分から分かってきます。彼にはかつて5人の夫がいたのですが、今は六人目の男と一緒に住んでいます。そのことは人に後ろ指を指されるような事柄だったのでありましょう。このサマリアの女は誰もいないと思った井戸に人がいて、しかもそれがユダヤ人の男性で、そのユダヤ人がサマリアの女性である自分に「水を飲ませてください」と声をかけてきたことにひどく驚いたに違いありません。9節には「サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とありますが、ユダヤ人とサマリア人は水を飲むための器を共有することさえ禁じられていたからです。イエスさまはその分厚い隔ての壁をいとも簡単に飛び越えておられます。
主イエスの逐語会話記録
イエスさまは常に向かい合う人と同じ目線で立たれます。私は今、神学校のCPEの中で白井幸子先生と共にスーパーヴァイザーを務めていますが、先述のように、このイエスさまとサマリアの女性との会話は大変に優れた逐語会話記録であると思います。イエスさまは私たちの気持ちをはらわたで受け止めてくださるのです。その会話を見てまいりましょう。婦人のところは高村神学生に読んでもらいます。主01:「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
女01:「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
主02:「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
女02:「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
この「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」というその女性の言葉は切実でした。彼女はある意味で生きることに疲れ果てていたのです。彼女の存在の一番根底にある「魂の渇き」までイエスさまは彼女を導き、その渇いている部分に触れられたのです。さらに会話は続きます。
主03:「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
女03:「わたしには夫はいません。」
主04:「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
女04:「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
主05:「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
女05:「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
主06:「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
そこに弟子たちが帰ってきます。主がサマリアの女と話しているのに驚きますが、誰も言葉を語ることができませんでした。そこでその女性は水がめをそこに残したまま町に行き、人々にこう言うのです。
女06:「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
人目を避けていたその女性は、イエスさまと出会うことで人目をはばからずメシアについて証言する者へと変えられていったのです。彼女はイエスという「生ける泉」から確かに命の水をいただいて飲むことができた。主との出会い、主とのやりとりは、人々をこのように解放していったということがそこには鮮やかに記されていて印象に残ります。
私たちもまたこの泉のほとりに招かれています。エルサレムでもゲリジム山でもないところで、キリストのみ名によって、霊と真理をもって父なる神を礼拝する時が来ている。今がその礼拝の時なのです。私たちの集っているこの礼拝がそれです。その時サマリアの婦人がイエスさまとのやり取りを通して劇的に変えられたように、キリストの礼拝を通して、神の生ける御言を通して、私たちもまた「人目を避けて陰の中を生きる者」から「人目を恐れず主の明るい光の御業を証しする者」へと変えられてゆくのです。
主は私たちの一番奥底にある魂の飢え渇きを知っておられる。そして私たちの魂の渇きをご自身の渇きとして背負われたのです。十字架の上で主は「わたしは乾く」と言われたように。そしてその渇きの深みへと降りてゆかれ、そこに地下からコンコンと湧き上がる岩清水を注ぎ出してくださるのです。
主の深い憐れみの言葉を心に刻み、泉のほとりでの婦人と主とのやりとりを思い巡らしながら、ご一緒にこの水を味わってまいりましょう。
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
お一人おひとりの上に主の豊かな祝福がありますように アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2008年2月24日 四旬節第三主日礼拝説教)