ヨハネ 15:26-16:4a
今年は、広島・長崎被爆、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所解放・ナチスドイツ降伏と 戦後70 年を始め、実に数々の「節目の年」-阪神大震災(1/17) – 地下鉄サリン事件 (3/20)・オウム真理教・麻原彰晃容疑者逮捕から20 年 (5/16) - JR 西日本福知山線脱線事故から10 年 (4/25) -日航ジャンボ機墜落事故から30 年(8/12) – ベトナム戦争終結40 年 (4/30) – 日韓国交正常化50 年(6/22) – 朝鮮戦争開戦65 年(6/25)。遡っては、日露戦争終結110 年(9/5)。それに、第2次大戦後10年目に独立したインドのネ-ル首相、インドネシア・スカルノ大統領、中国首相・周恩来、ナセル・エジプト大統領が中心となってインドネシアのバンドンで第一回が開催されたアジア・アフリカ会議より60 年;更に遡れば、第1 次大戦中に当時のオスマン帝国で始まった「アルメニア人虐殺」から100 年目の年 (4/24)。
身じかには、8 名の宣教師とその家族を派遣して50 年の節目を迎えるJELC のブラジル宣教、10 月4 日は、わが武蔵野教会の宣教開始90 周年。
このところ、辻井伸行さんのピアノが奏でる『花は咲く』― NHK「明日へ ―支え あおう」東日本大震災復興支援ソングがひときわ耳許に届く:風化させないように ! 世は、「風評被害」から「風化問題」へと移行している?
I.「風化」でなく「感化」を
今日は、Anno Domini(主暦)で2015 年目、4/5 の「復活祭」から数えて50日目。ユダヤ教ではシャブオットの祭で、過越、仮庵の祭と並ぶ三巡礼祭の一つ「五旬節・ペンテコステ」;キリスト教では「聖霊降臨日」。説教題を「今こそ思い出そう! 風化でなく、感化されよう!」とした。本日の福音書日課 ヨハネ15 章の「イエスはまことのぶどうの木」の最後のところ「迫害の予告」は、「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」(16:1)と結ばれる。今日、わたしたちが抱える「つまずき」の一つは「風化」では?
風化:地表の岩石が、日射・空気・水・生物などの作用で、しだいに破壊される自然現象。その風化に譬えて「記憶や印象が月日とともに薄れていくこと」。多くの場合、「危機意識の風化」や「問題意識の風化」。
他方、感化:影響を与えて考えや情緒を変化させること。ただ日本では従来、徳による「教化」と考えられてきた:「一世の感化に関係する有用の人となることを得べし」(1859 年発行のサミュエル・スマイルズ著の『自助論 (セルフ・ヘルプ)』が、明治4 年『西国立志編』と中村正直により翻訳刊行され、「天は自ら助くる者を助く」という独立独行の精神を「感化」の思想的根幹としてきた。
私にとっての「感化」は、67 年前の京都教会での体験;岸先生の説教、それは、偶然にも、今日の第1日課、エゼキエル書37 章の「枯れた骨の復活」‒「主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。なんと、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。『これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ、わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。- – おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう』。息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった」。
これこそ、「感化された」人々の姿だ! 事実、わたし自身も「感化された!」同様に、ペンテコステ当日の「突然、激しい風が吹いて来て、人々が座っていた家中に響き渡った、- すると一同は聖霊に満たされた – 」 それこそ「風化」ではあるが、実態は、聖霊による「感化」だ!
2.そこで、「感化」されるためには、まず「思い出す」こと!
「実を言うと、わたしが去って行くのはあなたがたのためで、弁護者をあなたがたのところへ送る – 」それは、(風評に押し流されないように)「あなたがたに思い出させるためである」。
「アナムネーシス(想起)」の大事さ。アナムネーシスというギリシャ語の名詞は新約聖書中4回しか出てこないが、その動詞形[アナミムネースコー、想起する]では6回の用例がある。注目すべきは、そのうちの3回(ルカ22・19、Ⅰコリント11・24、25)は、イエスの聖餐設定において用いられている、「私の記念として… 行え」。しかも、そのいずれも「十字架の死に向かうイエス」を想起させる言葉として使用されている。
最初のペンテコステ当日、ペトロの説教の冒頭、預言者ヨエルの言葉を用いて行った説教のはじめ:「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさったのです。 – 」
大事な点は、このアナムネーシス(想起)が十字架のイエスを思い起こすこと。
また、その動詞及び派生語が、ペテロがイエスの言葉を想起するという場面、特にペトロが十字架のイエスとの係わりで自らの罪深さを思い知らされる箇所で用いられているという事実。つまり、聖書の証言によると、イエスを想起(アナムネーシス)するのは、単に生前のイエスの姿を思い起こすということだけではない。特に、十字架との係わりでイエスの言葉を思い起こすことだ。また同時に、十字架の主との係わりの内に明らかにされた罪人としての私たち自身の姿に思い至ることである。
毎主日礼拝で、招かれて集う私たちは、み言葉の説教と聖餐に与ることで、先ず「思い出す」(聖餐設定の辞);いや、毎主日礼拝自体が、この「想起」に基ずいている。
3.「すると、人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、‒ 」感動した、感化された!
さらに注目すべきは、感化された人々は、ペトロとほかの使徒たちに「いったい、わたしたちはどうしたらよいのですか」と叫んだ。 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を
受けるでしょう!」ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」‒ 教会の誕生日と云われる所以。
今日、ムハンマドのコーランの教えに心酔するイスラームの勢力拡大に懸念する。でも、世界各地でテロや武力紛争を繰り広げるイスラム過激派組織とは全く異なり、聖霊で感化された「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった、人々に仕えた」と聖書は記録する。
むすび
とくに、宣教90 周年をむかえるわが武蔵野教会の皆さん。(私事にわたり、いささか口幅ったいことながら、この5月、わたし自身も受按60 周年を迎える)。
聖霊に感化されて、共々に、奮い立とう!
むさしの教会・ペンテコステ礼拝 説教 2015.5.24