ヨハネによる福音書 9:13-25
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。癒された盲人の喜び
本日の福音書の日課では、生まれつき目の見えない者の目をイエスが見えるようにしたという奇跡が物議を醸しています。それがなされたのが労働をしてはならないと決められていた安息日、土曜日であったからです。「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。」見えるようになったかつて盲人であった者の喜びをだれも知ろうとはしません。人間とはいかに不自由であり、いかに主の救いのみ業、解放のみ業に対して鈍感なのでしょうか。そして人間とはなんとコミュニケーションの難しい存在であるかということを思います。ファリサイ派の人々は安息日を犯したという自分の枠組みでしかものごとを見てゆくことができないでいる。大勢の人がこの癒された盲人の周りにいたのですが、誰一人として彼の目が開かれた喜びを一緒に喜んでくれる者はいなかったのです。
ユダヤ人たちは、恐れと不安のあまり、イエスの力あるみ業を理解することができません。彼らは盲人であった者に問いかけます。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」すると目が開かれた盲人はこう答えるのです。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
目の見えなかったわたしが今は見える! キリストが目を開いてくださった。盲人であった者の開かれた目はイエス・キリストを見据えて放しません。私たちも人生の中で主イエスと出会う時にこのようなことが起こるのだと聖書は告げているように思います。
私は、自分が二年前に網膜剥離を患った体験があるせいか、それ以降、聖書の中に盲人の目を開いた記事が出てくると人ごとに思えなくなりました。本日は特にイエスさまがこの盲人になされたことに焦点を当ててみ言葉に耳を傾けてゆきたいと思います。
主のこねた土
本日の日課は9章の最初からの続きです。生まれた時からの盲人を指さして、弟子たちがイエス・キリストに尋ねます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)。弟子たちは因果応報の考え方にがんじがらめに縛られている。しかし主イエスはこう答えるのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。そしてイエスは盲人の目を開かれます。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム―『遣わされた者』という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」(6-7節)。キリストと出会った者はすべて、このようにシロアムの池に行くように命じられているように思います。主に出会った者は、それを通して「シロアム」すなわち「この世に対して派遣された者」となるからです。
かつて盲人であった者はファリサイ派の人々の質問に次のように答えます。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
それにしても「主がこねた土」とは何を意味するのでしょうか。ただ触れるだけで目を開くこともおできになられたはずなのに、主はなぜこのような回りくどいことをなされたのでしょうか。何か「唾で土をこねる」という行為の中に大切な意味が込められているに違いないと私は思うのです。
聖書における「土」
「土」に関連して私は4つの聖書の箇所を想起させられます。(1)「土」ということでただちに思い起こすのは創世記2章の言葉です。創世記2:7には次のようにありました。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
土の塵でアダムを形づくられ、その鼻に命の息を吹き入れられた神。片や、唾を吐いてこねた土を盲人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言葉をかけられた主イエス。唾を吐くということは息を吹きかけるということと同じでありましょう。また「シロアムの池に行って洗いなさい」と言葉を告げるということは息を吹きかけるということでもありましょう。息が出ないと声にはならないからです。
唾に関して、マルコ福音書はイエスさまの二つの奇跡の中で言及しています。「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」(7:33)。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった」(8:23)。イエスの時代には、唾液の医療的効果は広く知られていたようであります。
そのように「主のこねられた土」とは新しい創造を意味するのです。
(2)「土をこねる」ということで思い起こす第二の箇所は、陶器師が土をこねて陶器を作るという聖書の箇所です。この陶器師と陶器のたとえはイスラエルが神さまの作品であることを告げています。イザヤ29:16やエレミヤ18:6などいくつもの箇所に出てきますが、ローマ書9章でパウロも次のように語っています。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」(9:20-21)。
(3)「土」ということで想起する第三の箇所はやはり創世記の3章です。禁断の木の実を取って食べた人間に神からの罰が与えられる箇所です。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(3:19)。
「塵に過ぎないお前は塵に返る」という言葉は聖灰水曜日に額に塵灰で十字を書かれると共に与えられる言葉でもあります。「塵に過ぎないあなたは、塵に返ることを覚えよ。」「メメントモリ」、すなわち「死を覚えよ」という言葉は中世の修道院での合言葉であったと伝えられています。私たちが死すべき有限の身体であるということをそれは教えているのです。
(4)「土」ということで四番目に思い起こすもう一つの箇所は、2コリント4章のパウロの言葉です。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(4:7)。
これは先に言及した陶器師と陶器の関係を思い起こさせますが、ここで土の器というのは私たちのもろさ、貧しさを指していましょう。そのような貧しい器に私たちはキリストという神の宝を納めているというのです。その宝のゆえに、私たちは自らの貧しさをも誇りうる者とされるという思想はやがて2コリント12章において頂点を迎えますが、ここでその伏線が張られています。この宝のゆえにパウロはこう語り得たのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(8-10節)。
「主のこねられた土」とはそのような意味が込められているように思います。それが、・神による新しい創造であるということ、・陶器師イエス、・人間が死すべき存在であるということ、・この土の器には神の宝であるキリストが納められているということ。そして先に述べたように、「シロアムの池に行きなさい」ということは、主が私たちを派遣されるということを意味しています。
破れた器をも用いてくださる主
先週の日曜日(3/3)の午後、東京教会で『神学校の夕べ』が開かれました。卒業して按手を受けようとしている坂本千歳、小泉嗣、白髭義という三人の神学生がそれぞれ説教をしてくださったのですが、とてもよい説教でした。中でも坂本神学生がCSの頃に先生から聞いたエピソードを分かち合ってくださったのが強く心に響きました。それは次のようなエピソードでした。指を隙間の無いように閉じて、ピッタリ両手を合わせて器を作るとする。するとそれは完全にピッタリと閉じた器になる。ピッタリ閉じているために、もしその中にロウソクを入れたとしてもその光は外を照らすことはない。しかし指を少し開いて両手を合わせて器を作ると、隙間だらけ、穴だらけの器になるかもしれない。しかし、その中にロウソクを入れると、その光は外にもれて周りを照らすようになる。それと同じように、私たちも穴だらけ、破れだらけのボロボロの土の器かも知れないけれど、その穴を通してイエスさまが光を照らしてくださる。
私たちは隙間のない器であろうとすることが多いだろうと思います。しかし破れたままでよいのです。むしろその破れたところ、欠けたところをイエスさまは用いてくださるのだということをこのエピソードは示しています。弱い時にこそ強いというのもそのような意味として捉え直すことができると思います。
中坊公平というクリスチャン弁護士が最近、『金ではなく鉄として』という本を岩波書店から出されました。その中で言われていることは、「自分は確かに金(ゴールド)ではなく、鉄でしかない。しかし、鉄は鉄として、神さまに与えられた大切な務めがあるだろう。それを精一杯生きるのだ」ということでありましょう。欠けたところ、破れたところも含めて、与えられたありのままの自分を生きるということです。
新しい存在
今は四旬節。主の十字架の道行きを覚える期節です。主が十字架にかかってくださったのは、実は私たちをもう一度新しい作品として造り上げるためでありました。その苦難の血と汗と涙とによってこねられた土で、私たちは新たに造られているのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)。この新しい一週間も、キリストによって開かれた信仰の目、開かれた心でキリストを見上げ、キリストに従う者でありたいと思います。主よ、どうか私たちにあなたのみあとに従うことができるように力を与えてください。アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2002年 3月10日 四旬節第四主日礼拝 説教)