ヨハネによる福音書 13:31-35
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。「新しさ」とは何か
本日の福音書の日課では、イエスさまが「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とお命じになられています。本日は特に「新しい掟」と言われる際の「新しさとは何か」ということに焦点を当てて、み言葉に思いを巡らせてゆきたいと思います。いつの頃からでしょうか。私たちが新しいことにチャレンジするのをためらうようになったのは。何歳頃からでしょうか。私たちが決まり切ったルーティンワークを好むようになっていったのは。これでよいのだろうかと漠然と不安を感じつつも、いつの間にか変化を求めず、今あることだけを大切にしようとしている保守的な自分になっていることに気づきます。
新しいことにチャレンジするのには大きな勇気がいります。未知な旅に踏み出してゆこうとするのには勇気がいる。イエスさまは「幼子のようにならなければ天の国に入ることはできない」と言われました。思い起こしていただきたいのですが、私たちが幼い頃にはすべてが新しく輝いていました。毎日が輝いていて、朝起きるのが楽しみだったし夜寝るのが惜しかった。恐れも迷いもなかった。今日は何をしようかと毎日が新しい挑戦でした。いつの頃からでしょうか。毎日が輝きを失い、起きるのが辛くなり、新しいことに挑戦するのがおっくうになってきたのは。気持ちの上でも、新しいことに挑戦するよりも古いことを守ろうとする守りの姿勢に入ったのは。
本日の第一日課である使徒言行録 章には、パウロに反対するアンティオキアのユダヤ人の姿が記されていました。「ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く』」(46節)。ここには新しいことを嫌い、古いままの自分を守ろうとするユダヤ人の姿が描かれています。そしてその姿は同時に、私たちの中に潜む、変化を嫌う、閉ざされたままのかたくなな姿をも表してもいましょう。聖書でイエスさまの言葉を読むとき、私たちはいつも新鮮な驚きを覚えます。そこには必ず何か私たちをハッとさせる、私たちの目を開く新鮮さがあるからです。
『プロジェクトX~挑戦者たち』
毎週火曜日にNHKテレビで『プロジェクトX~挑戦者たち』という番組が放送されています。現代のことも取りあげられますが、主として敗戦から高度経済成長の時期に、様々な分野で新しい挑戦を成し遂げた人々に脚光を当てて人気を博している番組です。私自身も見ていて胸が熱くなるようなことがあります。最近朝日新聞に、「今、時代は『慰めと癒しの時代』から『励ましの時代』に移りつつある」という記事が出ていて、なるほどと思いました。個人的にも、時代的にも、八方塞がりの行き詰まった状態からの脱出・解放を私たちは望んでいるのかもしれません。だからこそ『プロジェクトX』のような、ギリギリの困難な状況の中で、難しいことに取り組んで、最後の最後で起死回生のホームランを打った人々の忍耐と努力の物語に心ふるえる思いがするのかもしれない、そう思います。
私自身の深い関心は、何がそのような挑戦者たちを支え、そのエネルギーの源になっているかという点にあります。先週は家族を遠出に連れ出したいという一念から大衆車であるスバル360を開発した人たちが描かれていました。液晶モニタやVHSビデオデッキなどの開発をした人や、困難な手術を手がけ続ける心臓外科医や、難産を積極的に引き受けてゆくパルモア病院のことなど、胸を打つ内容の物語が描かれています。
私はそれを見るたびに、本当に人生は筋書きのないドラマであると思います。後から時間が経って結果が出たところから振り返ってみると、筋書きがあるようにも思いますが、その時には先のことは見えないのです。彼らをどのような信念・信仰が支えたのか。いずれにしても困難な状況の中にあって、新しい挑戦に立ち向かってゆく者たちの忍耐強い生き様は、心に響きます。
しかし同時に私は思います。どんなに一生懸命に頑張っても頑張っても報われない、結果が出ないということの方が私たちの人生には多いのではないか。成功者はほんの一握りでしかない。人生は失敗ばかりであり、私たちの中には悔いばかり残っている。十字架のキリストはこの世の成功者ではありませんでした。しかしキリストは神のみ心の忠実な実践者だった。私は牧師として人生の様々な次元に関わりますが、何の力によって成功するかということよりも何の力によって失敗に耐え抜くことができるかという側面の方が大切ではないかと思うことが多いのです。失敗しても失敗しても、信仰者にはイエスさまが新しい力を与えてくださる。
キリストにある新しさ
主は言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。キリストの与えてくださる「新しさ」とは何であるのか。それは、私たちに新しい生き方、新しい人生を可能とするような新しさです。そしてそれはこの世的に成功するか失敗するかとは異なる次元での話です。目に見える世界に生きつつ、見えないものに目を注ぎ続けることによって日々新たにされるような生き方なのです。2コリント4章でパウロはこう言っています。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えてゆくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされています。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と(4章18節)。
信仰とは見えないものに目を注ぐことです。ヘブライ11章1節もこう告げています。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」なのだと。パウロの言うキリスト者の目を注ぐべき「見えないもの」とは、その前後の「土の器にこの宝を納めている」という言葉や、「死ぬはずのものが生命に呑み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たい」という言葉を読むと明らかですが、「復活のキリストのご臨在」ということでしょう。見えない復活のキリストに目を注いで生きる。これが私たちが日々新たにされる力の源なのです。
パウロはまた、ガラテヤ6章14~15節でこう語っています。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」目に見える割礼の有無は問題ではない。大切なのは新しく創造されることなのです。パウロにとっては、キリストを信じること、キリストと共に十字架で死んで、キリストと共によみがえること、これが「新しく創造される」ということでした。2コリント5章 節ではこう語ります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5章17節)。
イエスさまは言われました。「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(マルコ2章22節)。キリストの福音という「新しいぶどう酒」は信仰者の新しい生き方という「新しい革袋」を求めているのです。この宝は土の器(=革袋)に納められているのです。
新しい愛の創造
福音書の日課で主は命じています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。そして続けるのです。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と(35節)。キリストの掟の新しさは、私たちをその存在の根底から日々新しく創造してゆく新しさです。私たちを愛の共同体に新たに創造することによって、キリストの弟子を通してこの世の皆が復活のキリストが今も生きて働いておられることを知らせるような新しさです。主は十字架にかかられる前日、最後の晩餐の中で言われました。「これはあなたのために与えるわたしのからだである」「これはあなたの罪のゆるしのために流すわたしの血における新しい契約である」と。十字架の血潮は神と私たちとの新しい契約締結のしるしとして流されたのです。「あなたがたに新しい掟を与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。この新しい愛の戒めは、私たちがキリストを信じるときに、私たちをその根底から新たにしてくれるような戒めです。キリストの愛が私たちを新しく創造してくださったのです。
本日の第二の日課のヨハネ黙示録21章には、新しい天と新しい地の預言と共に、「万物が新しくされる」ことが宣言されていました。「『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。れらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた」(21章3~5節)。キリストのゆえに既に新しい天と新しい地がこの地上に始まっていることを私たちは知るのです。そのような見えないキリストの愛によって実現されている新しい天と新しい地とに目を注ぐとき、私たちは見える世界に生きる勇気を与えられる。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」私たちの人生において、新しいキリストの愛による挑戦が始まるのです。
キリストの愛が私たちを捕まえて離さないでいてくださる。だから私たちは愛し合える。だからパウロも次のように言うことができた。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5章1~5節)。
キリストの与えてくれる新しさとはこのような神の希望に生きる新しさです。キリストの契約の新しさとは、神がその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださったという驚くべき事実に目を開かれる新しさです。それはどんな行き詰まりの中にあっても、「為(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失わず」と告白しうる新しさです。神の愛はキリストにおいて私たちを新たに生まれ変わらせてくださるほど爆発的な力を持った創造の力なのです。
私たちは、たとえ困難な状況に置かれているとしても、キリストを信じる信仰の中に、このような神の愛の新しい力を得て、新しく一週間を歩み始めたいと思います。ギリシャ語で「キリスト」という単語は頭文字がXで始まりますが、私たち一人ひとりの「プロジェクトX(キリスト)」を始めたいと思うのです。
お一人おひとりの上に神さまの豊かな恵みが満ちあふれますように祝福を祈ります。アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2001年 5月13日 復活後第四主日礼拝)