ヨハネによる福音書 15:1ー8
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。「わたしはぶどうの木」
最後の晩餐の時もすっかり終わり、イスカリオテのユダが一切れの食物をイエスの手からいただいてその席から出て行ってからかなり時が経っており、すっかり夜でございました。イエスは弟子たちに向かって「あなたがたは心を騒がせないがよい」そういう言葉で決別の言葉を語っていらっしゃいました。今、ふと調子が変わって、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とそういう言葉で、有名なぶどうの木と枝のたとえをお話になっていらっしゃる箇所であります。イスカリオテのユダが出て行ったあと、なんとなく重苦しい気分に浸っておりました弟子たちは、そのイエス様の話のふと調子が変わったことを聞いて、「おやっ?」とじつは思いました。「ぶどうの木」というのはもともと昔からよくイスラエルの祖先たちを指している表現で、旧約の預言者たちはそれをあまりいい意味では使っておりませんでした。どちらかというと不信仰な堕落をしていくイスラエルの民に当てはめて考えられていることが多くございました。
たとえば、イザヤ書の5章1節にはこういうことが書いてあります(新共同訳旧約聖書p1067)。「わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌を歌おう。わが愛する者は、土越えたお山の上にひとつのぶどう畑を持っていた。彼はそれを掘り起こし、石を除き、それによいぶどうを植え、その中にものみやぐらを建て、またその中に酒舟を造り、よいふどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが、結んだものは野ぶどうであった」というイザヤの預言もあります。せっかくよいぶどうを植えたのに、野ぶどうになってしまった。そういう意味でのイスラエルの民がどんなに不信仰な民となってしまったかということのたとえであります。
エレミヤはまた、こう言っています。「わたしは、あなたを全くよい種の優れたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変わって悪いぶどうの木となったのか」(2章21節)。エゼキエルという預言者もホセアという預言者も同じような嘆きの声をイスラエルに向かって投げかけました。そしてイスラエルがよいぶどうの木であったのに悪いぶどうの木になってしまった、野ぶどうになってしまったということを嘆くのです。しかし、イスラエルの民は、ぶどうの木を大変誇りに思っていまして、ある王様の時代にはその当時のお金の紋章にまで使われたほどでしたから、ぶどうの木という言葉が出て来る時には、なんとなく自分たちのことを指しているんだなぁ、とみんな思ったに違いないのです。
しかし弟子たちは、今までイエス様が律法学者やユダヤ人たちを攻撃していたわけですから、そしてたった今、イスカリオテのユダが裏切り者として出て行ったばかりでしたから、イザヤやエレミヤが言っているあの野ぶどうの見本をちょうど目の当たりに見たかのような思いでこの言葉を聞いたに違いないのです。ところが、弟子たちがちょっとばかり不思議に思ったのは、イエス様がご自身のことを「わたしはまことのぶどうの木」と、そういうふうにおっしゃったからであります。なぜイエスご自身がぶどうの木なのか?むしろ、イエスさまのもとで忠実に残っている十一人こそが「まことのぶどうの木である」と、そう言って欲しかったと弟子たちは思ったかも知れません。ああいうパリサイ人や律法学者やイスカリオテのユダに代表されるような悪いぶどうの木じゃないのですから、わたしたちはイエス様のもとにあって忠実に今まで過ごしてきた者なのですから、わたしたちにぶどうの木と言ってください。決してわたしたちは野ぶどうではありません、とそういうふうにほめられたかったかも知れないのです。そういう意味では「自分たちにどうして『お前たちこそぶどうの木だ』と言ってくださらなかったんだろうか」と思ったに違いありません。ところがイエス様はそうおっしゃらないんでありまして、ご自身がまことのぶどうの木だと、こうおっしゃるのです。
「あなたがたはぶどうの枝」
弟子たちは、本来自分たちに言われなければならない事柄が、自分たちにではなくて、むしろイエスさまご自身の方でそのことが受け止められているということにここでは気づかされなければならなかったのです。そして、弟子たちはとんでもないことを自分たちに当てはめてイエスさまがおっしゃるのに気づいて、またまた「おやっ?」と思うのです。それは、「あなたがたはその枝である」とこうおっしゃったからであります。「枝」というのは、弟子たちにとっては、あまり有り難いたとえの仕方ではありませんでした。当時のパレスチナでもぶどうは大変多かったのです。おそらくイスラエルにいらっしゃいました方はきっとぶどう畑の多いのにお気付きになったことと思いますが、同時にぶどうは、日本でもそうですけれども大変手のかかる作物で、多くの人手を必要といたします。甲府の勝沼あたりにいらっしゃいますと、よく整備されたきれいなぶどう園を御覧になることができるはずです。イエスさまの時代でもそうでして、とくにその枝の刈り込みはなかなか技術を要したと言われています。通常は冬、12月から1月にかけて、実のなる枝と実のならない枝とをじょうずに区別をして選定をしてゆく、そういう作業をいたしました。そういう意味では「枝」というのはいつ取られてゆくか分からないような存在であったわけです。
それからまた、全く別のことなのですが、当時は神殿で供え物を焼くという習慣がありました。その時に人々が焼くための薪を持って行くのですが、持って来てはならないもののひとつに「ぶどうの枝」がありました。というのは、ぶどうの枝というのはすぐ燃えやすくて燃え尽きるのが早いものですから、供え物を焼いてしまうだけの火力を持っていないのです。そういうわけで、「ぶどうの枝」というのは役に立たないものの象徴でありました。
切り捨てられ、役立たずということのしるしとしてのぶどうの枝。そんな枝に自分たちがたとえられておりましたから、弟子たちは「おやおや」とこういうふうに思ったわけです。そういう意味では、弟子たちはイエスさまから逆に大変厳しい自己認識のあり方を迫られたと言ってもよいのです。ひょっとすると、切り捨てられるかも知れない、そういう存在であって、ひょっとするともう役に立たないままでいるかも知れない、そういう存在なんだよというふうに言われたのと全く同じであります。
「ぶどうの木」というふうにたとえらえますと、弟子たちは胸をはって「あー、そうだ….」と言うかも知れません。自分たちは耐え忍んでやっとここまで生き残って来たのだから、イエスさまと苦労をして、そしてイエスさまのおっしゃることを忠実に守って来たのだから、やっぱりぶどうの木だったんだ、と。もしそう言われたのであれば、自分の思っていることとイエスさまがおっしゃったことがひとつになったかも知れないのですが、「ぶどうの枝」だと言われたものですから、自分の考えていることとすっかり違ったふうに言われてしまった。「おやおや?」とそう感じたわけです。
しかし、イエスさまは「わたしにつながっていれば実を結ぶ」と、こういうふうにここでまたおっしゃるんですね。おそらくは、「ここままだとだめなのだよ。このままだと実を結ばない枝であって、切り捨てられて火に投げ入れられてしまうのだよ。わたしにくっついていると実を結ぶのだ」と、そうイエスさまはおっしゃった。
主イエスとの「つながり」
しかし、そう単純にイエスさまはおっしゃったのだろうかということがあります。イエスにつながっていくということはどういうことなのか?ここでは「つながる」という言葉が大変たくさん用いられています。つながるというこのそういう日本語で表現されている言葉だけでも、1節から8節までのこの短いテキストの中になんと9回出てきます。7節の「とどまっている」という言葉がありますが、7節ですが、「とどまっている」という言葉もじつは、同じく「つながる」という言葉と全く同じ言葉でありまして、これまで入れると10回出てくることになります。どうしてイエスさまはこんなにたくさん、つながる、つながる、つながる、つながるとおっしゃったのか?少しこの、たくさんイエスさまは語り過ぎていらっしゃるんじゃないだろうかと思われるほど、「つながる」という言葉がここで用いられていることに気づきます。この「つながる」という言葉を、わたくしどもがよく見てみますと、ただ弟子たちの方向からつながるということが言われているだけではない、つまりイエスさまは弟子たちに向かって「わたしにつながっていなさい」と言っておられるだけではない。むしろイエスさまご自身の方からも、「わたしの方からつながっていく」とおっしゃっておられる。そういう言葉でもあるということを気づくことができます。4節には、「わたしとつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」と告げておられます。
「枝」というのは、もともとこのそれ自体で成長しているわけでもありませんし、それ自体自分で選択権を持っていて、「わたしはどの幹にくっつこうか」などという自主性を持っているわけではありません。「枝」というのは幹から出てそして伸びてゆく、そういう存在であります。そういう意味では、枝と幹というのはまさに両側からつながっているというそういう考え方はごく自然なのかも知れません。弟子たちが「わたしがイエスさまとつながっていよう」と、そういうふうに言うだけではなく、イエスさまご自身からも「弟子たちにつながっておいでになる」というのは、そういうこの枝と幹との関係からきとおっしゃった言葉だと思うんです。
ですけれども、イエスさまの側からつながっていくよとおっしゃるのは、弟子たちに新しい意味を投げかけるものでありました。ここでも弟子たちはまた「おやおや?」とこう思うのです。イエスさまは「わたしとつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」とおっしゃった。それでイエスさまという幹と弟子たちが両側からつながっていくわけです。そのつながっていく枝と幹との関係の中で、「つながったらこうなるよ」ということをイエスさまはおっしゃらない。その前に、「あなたがたはわたしが語った言葉によって、すでに清くされているのだ」とこうおっしゃるんですね。「すでに清くされている」。「つながったら豊かな実を結ぶよ、つながったらこういう新しいことが起こっていくよ、だからつながんなさい」ではなくて、「こうなっているからつながりなさい」とイエスさまはおっしゃるんです。
「すでに清くされている」ということはどういうことでしょうか?それはきっとここでこう考えることができると思います。「枝」のような役に立たない存在でありながら、いつ切り捨てられていくような存在、そういう存在でありながら、そのままで「祝福をされている」ということにつながっていかないでしょうか?役に立たない存在がすでに祝福の中に置かれているのだ、ということにわたくしどもは気づかないでしょうか?だからこそ、切り捨てられるかも知れない、役に立たないかも知れない、その存在そのものが実を結ぶ場所となっていくということが起こっているのではないでしょうか?そういう意味では、イエスさまにつながっていく、いやイエス様がつながってくださる、というのは、大変な祝福のしるしだ、ということに気づきます。
しかし、またまたイエスさまはその前に少し不思議なことをおっしゃるのです。「わたしにつながっている枝で、実を結ばないものは、父がすべてこれを取り除き、実を結ぶものはもっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである」とイエスさまはおっしゃっています。イエスさまにつながっているからといってそのままでは実を結ばないのです。イエスさまにつながっているだけでは、そのまま即それが豊かに実を結ぶというふうにはならない。イエスさまがここでおっしゃりたいのは、イエスさまにつながっているということでかえって実を結ばないことと、実をもっとたくさん結ぶこととがはっきりする、ということであります。そのために父が農夫として働いておいでになる。
農夫は、ぶどう畑で酒舟を造り、石垣を築き、ものみやぐらを建て、そして枝だの手入れをする、そういう働きをする存在であります。神さまがそういうお方として、ぶどう畑で働いていらっしゃる。そういうことの中で、イエスさまとつながっているということが起こっている。いわばイエスさまとつながっているということの中で、あの「枝」というほとんど役に立たないような、切り捨てられるかも知れない小さな存在。そういう存在に実を結ぶか実を結ばないかという大変大きな、しかも根本的なことが関わってきているのだということを知らされているのと同じです。そして、実を結ぶように、実を結ぶように、わたしたちには、手入れがいつでもされている、そういう働きがいつでもわたしたちの下の方で行なわれているということであります。
枝の存在だけでは、決して起こりえないことが今起こっているのです。イエスさまが「わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできないからだ」とおっしゃいますように、枝だけではなんにもできないのです。しかし、あの役に立たない、切り捨てられるかも知れない枝が、イエスというぶどうの木につながっていることによって、そしてつながりの中で、実を結ぶように、実を結ぶようにと、いつでも手入れを受けている。そしてその中で実を結ぶか実を結ばないかということがはっきりしてくる、そういう大きな業が起こっているんだよ、ということをイエス様は弟子たちに向かっておっしゃるのです。そのようなつながりがイエス様と弟子たちとの間にあるということであります。
つながりというのは、そういう意味では、もっとも根源的なことであります。そして、その根源的なつながりを通して実が結ばれていく、実を結ぶのはあくまでも弟子たちの側であります。言い換えれば「わたしたちの側」であります。わたしたちの側で実を結ぶために、もっとも根源的なそのようなつながりが、イエス様とわたしたちとの間にある、ということであります。そういう根源的なつながり、これは今日(こんにち)わたくしどもにもっとも必要とされていることであります。実を結ぶ根源的なつながりであります。
「つながり」が勝負
最近、『神学と精神医学の間に』という小さな本が聖文舎から出されたのでありますが、その中に、いのちの電話の総主事をしていらっしゃる牧師先生の齋藤友紀雄先生という方が自殺の問題について書いていらっしゃるところがあります。その中に『夜と霧』を書きました有名なフランクルという人がいるんですが、その人の話が載っています。フランクルのところにひとりの女性から電話がかかってきました。「自殺をするかも知れない」というそういう電話です。それでそのフランクルがその女性に電話を受けて、一生懸命聞いてあげるんですね。そしてやっとその女性が自殺を思いとどまるんです。その翌朝、その女性がフランクルのところにやってまいりまして、何と言ったかと言いますと、「わたしが自殺を思いとどまったのは、先生が説得してくださったわけではないんです。真夜中に一面識もない私の電話にでてくださって、私の話を聞いてくださったからだ」と答えたんですね。「つながり」なんですね。つながり。それが自殺を思いとどまらせたんです。そしてそのつながりによって「生きるか、死ぬか」ということがそこで起こったのです。そして「生きる」ということへその女性は自分の人生の方向転換をしたんです。実を結んだのです。
もうひとつのいのちの電話の話しがでています。北海道のずーっと彼方から電話がかかってまいりました。この若い女性も自殺の予告の電話をしてきた、と書いてあります。いのちの電話っていうのは、自殺予防にはとってもいいそうです。それは、相手を見ることができないから、そして一本の電線で「つながり」ということだけを表現するからだそうです。その時に、同じく相談を受けたのは若いカウンセラーであったそうですが、4時間かかって一生懸命その女性を説得したんです。それでその時にその説得をしましてやっとその女性が思いとどまって自殺をやめたんですけれど、その自殺をやめさせた決め手は何かというと、「電話を切らないで!」ということだけだって言うのですね。説得やハッとする名言が出て、自殺を思いとどまったというんじゃない、「電話を切らないで!」という一生懸命にただそれだけのことを言う。そして一生懸命聞いてあげたということ、それだけが自殺を思いとどまらせた、という話がでておりました。まさに「つながり」であります。
「つながり」というのは、そういう意味ではですね「勝負」なんですね。勝負を仕掛けて、実を結ぶか実を結ばないか、そういう勝負をじつは仕掛けているんです。そういうところに置かれているものだということをじつは、いのちの電話の話はよくわたくしどもに知らせています。きっとキリストとわたしたちの間にある関係もきっとそうかも知れない。キリストとわたしたちの間には、あのぶどうの木と枝との関係があります。枝は役に立たず、切り捨てられていく存在かも知れない、いわば自殺をするかも知れない存在なんです。でも「つながっている」ということによって「実を結ぶ」という方向へ生きていくことができる。そして、実を結ぶというところでは、実を結ばないということと一生懸命戦っているんだということであります。実を結ぶということと、実を結ばないということがもっとも先鋭になってくる、そういうところでわたくしどもはイエスとつながれているということを思いたいのでございます。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と、そういふうにイエス様がおっしゃいます時には、そのようなイエス様からの勝負が仕掛けられているんだ、ということをわたくしどもは知りたいと思うのであります。
おわりの祈り
お祈り致します。父なる御神様。わたくしどもは、わたくしどもが主につながっている以上に、主ご自身がわたくしどもにつながって来てくださいます。そのようなつながりの中で、わたくしどもに「実を結ぶように」と、主なるお方の豊かな手入れがなされています。わたくしどもが、わたくしどもの小さな存在を通し、実を結ぶことができることの祝福を今そのつながりを通して知ることができますように。キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。
(1979年5月13日 復活後第5主日礼拝説教)
(テープ起こし:後藤直紀、文責:大柴譲治)