ヨハネによる福音書15:11ー17
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。あふれる喜び
今日は二重の意味で特別な喜びの日、セレブレイションです。周りをごらんいただくと一目瞭然ですが(注:この日は青山四郎先生の作品をはじめ、20枚ほどの絵に囲まれる中で礼拝が行われた)、二日前からむさしのアート展が開かれていて、まるで学園祭・文化祭のようなにぎわいです。このために委員長の藤田さんや伝道委員会など準備してくださった方々のご苦労を覚えます。また、作品をお寄せくださった方々の熱い思いをも感じます。それは21世紀にむけての私たちの平和の祈りであり、信仰告白です。ある方はこう私に語ってくださいました。「このような中で礼拝が守れることが嬉しいですね。本当にう、れ、し、い」。また今日は特別に、私たちの喜びをさらに満ちあふれさせるかのように、ルーテル学院大学・神学校から聖歌隊が来てくださっています。26人もの聖歌隊員が礼拝に加わってくださっている。ルーテル教会はその最初から「歌う教会」とも呼ばれて来ましたが、今日も私たちは歌うことの喜びの中に置かれています。むさしの教会がまだ「神学校教会」と呼ばれていた時の武蔵野教会聖歌隊の写真が会堂の後ろには飾られています。私たちはこの75年間、時がよくても悪くても、悲しみの時にも喜びの時にも、神さまへの讃美を歌い続けてきたのです。
実は私も妻も学生時代、もう20ー17年前になりますが、聖歌隊で歌っていました。聖歌隊創立25周年にはレコードも出しました。現在の聖歌隊は私の前任者でもある徳善義和先生の弟さんの徳善義昌さんが指導されておられますが、その頃の聖歌隊は当時の武蔵野教会のメンバーでもあった山田実先生が指導をしてくださっていました。そして神学生は個人的に希望すれば週に一回、無料で山田先生に30分発声練習をしていただけましたので、私や池袋教会の立山先生などは山田先生より2年以上に渡って個別に発声の訓練を受けることができました。聖歌隊での訓練や山田先生の個人レッスンがなければ今の私はなかったと思います。その意味で山田先生は恩人です。
それまでの私はまったく声が出ず、息がもれてしまってほとんど声帯を震えさせることができなかったのに、腹式呼吸の仕方を覚え、また声帯を効果的に振動させることができるようになりました。音感も決して優れいなかったのですが、今ではなんとか歌えるようになった。訓練の大切さが身に沁みてわかりました。歌うことが苦手だった私が礼拝の司式者として今は毎週歌う仕事についている。本当に不思議なことです。
「隣人の声が自分の口から出るように」
聖歌隊で山田先生はよくこういう言葉を語られました。「隣の人の声が自分の口から出ているように、また自分の声が隣の人の口から出ているように歌いなさい」と。これはなかなか味わい深い言い方です。これは聴くということの大切さを教えています。周囲の人の声をよく聴きながら、それに合わせて歌いなさいということでしょう。もちろん時には隣に合わせないほうがよいこともあります。隣の人の声に影響されて自分も音程が狂ってしまうということが起きるからです。そうならないためには、心を鬼にして、耳を塞いで歌わなければならないこともあります。そのあたりが最初苦労するところです。しかし訓練によって次第に音を一つに合わせてゆくことができるようになってゆきます。
隣の人の声が自分の口から出ているように歌う。発音も、音の高さも、ハーモニーも、同じパートの隣りの人に合わせてゆく。それは発声のためであると同時に耳の訓練のためでもありました。相互に声を聴き合うことの大切さを忘れてはならないのです。聞こえてくるものに自分の声を合わせてゆく。「隣の人の声が自分の口から出ているように」というのは、そこでは自分の声の音色と隣の人の声の音色が一つに溶け合って響くということです。
音楽好きな人はアンサンブルの楽しみや合唱の喜びがよくわかると思います。ピタッと合うと、それは天上からの音楽のように響きます。ピアノでもギターでも一つの音を弾いてよく耳を澄ませると、その上に倍音と言っていくつもの音が同時に鳴っていることが聞こえてきます。例えばギターで6弦のミをボーンと弾くと、1弦のミ、3弦のソ、2弦のシが共鳴して動きます。4弦のレまでが動きます。一つの音の上にいろんな音が同時に響いているというのがおもしろいところです。倍音の響き方の違いが音色の違いになってゆくわけですが、それらが合わさって溶け合う時、アンサンブルや合唱においては、自分一人だけではけっして味わうことのできないすばらしい体験を味わうことができるのです。
私たちは「神さまのオーケストラ」と言った人もいます。確かに一人ひとりは違った音色と個性とをもった違った楽器ですが、それが合わさって一つの讃美の音楽を奏でていると申し上げることもできましょう。
自分の声しか聞こうとしない罪
隣人の声が自分の口から出ているように歌うことを妨げているものが私たちの中にあります。それは自分の声しか聞こうとしない自己中心性です。周りはどうでもよい。自分さえ陶酔的になれればよい。自分が大声で歌ってストレス解消できればよいという態度。一人で歌うカラオケなどではそれでよいかもしれませんが、これではアンサンブルの喜び、合唱の楽しみは決してわかりません。自分しか見えないことを聖書は罪と呼びます。罪とは自分の声以外の声を聞こうとしないことであり、何よりも神の声を聴こうとしないことです。そこには孤立しかない。私たちは自分の罪が砕かれたときに本当の喜び、本当の生きることのすばらしさを味わうことができる。ルターは音楽は神さまから与えられた最大の宝物であり、悲しむ者の最大の慰めであると語りました。ルター自身リュートをつまびき、「音楽家」というあだ名を持っていたように、讃美歌の作詞作曲もやりました。自分の殻が打ち砕かれて隣人の声が聞こえてきた時、自分と隣人との間に、我と汝の間にハーモニーが聞こえてきた時、「隣の人の声が自分の口から出ている」ように聞こえてきた時に、私たちはこれまで味わったことのない新しい喜びに満たされてゆく。それがアンサンブルの喜び、合唱の喜び、ハーモニーの喜びです。それは愛の喜びと言ってもよい。そこにおいて私たちは、一人では決して味わうことのできないような大きな喜びに満たされるのです。音楽は私たちを整え、私たちに響き合うことの喜び、共に生きることの喜びを教えてくれます。
十字架のキリスト
本日の福音書の日課の中で主は、「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを弟子たちに与えています。ここで愛とは、隣人の声を自分の口から出ているように、そして自分の声が隣人の口から出ているように聴いてゆくことです。パウロも言いました。「喜ぶ者と共に喜び、なく者と共に泣きなさい」(ローマ10:15)。私たちが隣り人の喜怒哀楽の声に耳を傾け、自らの声を重ね合わせる時、そこには天上のハーモニーが聞こえてくるのです。キリストは私たちの声にご自身の声を重ね合わせるためにあの十字架の上にかかってくださったからです。「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか」というキリストの叫びは私たちに代わって叫ばれた叫びでもありました。神と等しくあられたお方が、人の姿を取り、僕の姿をとって死に至るまで従順に歩まれた。そこには神の愛のハーモニーが響いています。「神のハーモニー」~第二日課
新共同訳聖書では「神は愛」という小見出しのついた本日の第二日課もまた、私たちに「神のハーモニー」を教えています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(1ヨハネ4:7-12)。
神の愛が私たちのうちに宿る。私たちが神の愛の器として用いられる。神の愛のハーモニーの中に私たちはそれぞれが楽器として置かれているのです。
だから私たちは今、あの十字架に向かって耳を澄ませたいと思います。私たちを友と呼び、ご自身の生命を捨てるほどの愛、「最大の愛」を示してくださったお方の十字架に。そこからキリストの I love You という確かな声が響いてくるまで耳を傾けたいのです。「聴く」とは「十四の心をもって耳を傾ける」と書きます。そのような心をこめて耳を傾けたい。
そして私たちは自分の声をキリストの声に重ね合わせたいと思います。そこにこそ私たちのあふれる喜び、愛の喜びがある。その時に私たちは隣人の声にも自らの声を重ね合わせてゆくことができる者と変えられてゆくのです。
ハーモニー~あふれる喜び
イエスさまはおっしゃいました。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。喜びが満ちあふれるために、ぶどうの木とぶどうの実のたとえを話された主イエス。主は今や弟子たちに新しい戒めを与えられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。私たちが自ら打ち砕かれて、このようなキリストの愛のハーモニーの中に生きる時、私たちには一人では決して味わうことのできない喜びが満ちあふれてゆくのです。お一人おひとりの上に神さまの愛が豊かにありますように。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2000年 5月28日 復活後第五主日礼拝)