説教 「信仰の告白」 賀来周一牧師

ヨハネによる福音書16:12-15

ルーテル教会のように教会暦にしたがって、主日の礼拝を守る教会は、この時期、信仰にとって重要な鍵となる救いの出来事を主日の聖書日課を通して学ぶことになります。私たちもこの二ヶ月ほどの間に主の十字架の出来事、復活、昇天、ペンテコステ、そして三位一体主日と毎主日毎に救いに関わる重大な要目を学んできました。

キリストは罪の罪、死の死、悪魔の悪魔となりたもうことによって、神への背信の罪を犯した人間のため責任を取ってくださったのが十字架の出来事であり、復活によって人は再び永遠の命を回復し、神ご自身による人間回復の救いが完成します。昇天とはその出来事を起してくださったキリストはいつでもどこでもおいでになるという表象です。またペンテコステはその人間回復の救いの働きは今も教会を通して地上で行われているということを告知しているのです。

三位一体の教えはこれらの壮大な救いのドラマをまるごと圧縮して信仰告白にまとめ上げたようなものです。信じることのすべてがすっかり融解しているるつぼとも言えそうです。

三位一体主日の聖書日課には「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とキリストの言葉を伝えています。

真理という言葉の原意は「覆いがない」という意味をもっています。いわば余計な夾雑物がないということで、真理というものは生のままの姿だということです。三位一体という凝縮した信仰告白に表現された救いの真理は、なにがそこで起こったかをそのままそっくり生の姿で伝えている、これを理解するには、一筋縄ではいかない、真理の霊が来ないとどうにもならない、と主イエスの言葉を通して、私たちに言っているのです。

私たちは信仰に関わることをよく整理して、頭脳で分るように整えないと信じることができないと思いがちなところがありますが、そのようなアプローチの仕方とちがう信仰ヘの道があるということなのです。

それを表すよい例が先聖日に学んだペンテコステの出来事にありました。五旬節の日エルサレムはごったがえしていました。事が起ったとき人々は賛美に溢れ、感謝の心で一杯だったでしょうか。とんでもありません。「人々はあっけにとられ、驚き怪しんだ」、「あの人たちは新しいぶどう酒で酔っている、と言う者もいた」と使徒言行録にあります。

重大な救いの出来事が起り、弟子たちが真剣に事の真相を語っているのになんということでしょう。整然と頭を垂れ、神の言葉が語られているのを粛然と聞いている人々の姿はどこにもありません。ただ混乱があるのみです。

ルターは面白いことを言っています。「私が来たのは平和をもたらすためではなくて、剣をもたらすためだ、と主が言われるように、十字架の福音が説かれると世のなかは騒然となる。平和が保たれたままで説教がなされるなら、それは福音ではない」。

なるほどと思います。もし私たちがキリストの救いの福音を聞いて疑ったり、驚いたり、あっけにとられたりするようなことがあれば、それこそそこにキリストの福音がある証拠だというのです。私たちがキリストのことを聞いて、その通りだと思い、なんの疑念ももたないなら、私の知恵はあっても、キリストの福音はないでしょう。私の知恵はキリストの福音が説かれるところでは、さっさと引っ込まなければなりません。

すでに故人となられましたが、かつて東京YMCAで長年に亙り総主事秘書として貢献された佐藤裕子さんのことです。佐藤さんはもともと札幌教会の出身で、戦後間もない頃、結核を患い札幌の平岸にある幌南病院で療養生活を送っておいででした。そこへフィンランドから宣教師が来日、早速病院伝道を開始し、佐藤さんのところへも訪れては聖書の話をするようになりました。しばらく経った頃、その宣教師は「どうですか。洗礼を受けませんか」と勧めました。佐藤さんは、まだ受洗は早いと思い、「結構です」と断ったのですが、日本に来て間もない、当の宣教師はこれをOKの返事だと勘違いをし、枕元で洗礼の準備を始めてしまったのです。彼女は断るに断れず、とうとう洗礼を受ける羽目になってしましました。以来、数十年に亙って熱心な信仰生活を送り、YMCAに大きな貢献をしました。

これなど人間の知恵なんぞどこかに吹っ飛んでしまったよい例で、真理の霊が導いたとしかいいようのない信仰の証といえます。それこそ壮大な救いのドラマに圧倒されて、ちっぽけな人間の思いなどはどこかに飛んで行ってしまっています。信仰を告白するときには、だれしも同じような経験をするのではないでしょうか。

(2004年6月6日 三位一体主日聖餐礼拝説教)