説教 「創造の喜び」  大柴譲治牧師

コリントの信徒への手紙 二 5:17

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

キース・ジャレット

二年半ほど前のむさしのだよりの巻頭言(2000年9月号)に私は、「神の息吹によるインプロビゼーション(即興演奏)~キース・ジャレット」と題して次のような文章を書かせていただきました。

キース・ジャレットというジャズピアニストがいる。ケルンコンサートやパリコンサートなど、演奏した地名がそのままCDのタイトルになることが多い。それはその演奏がその土地の名前で呼ばれる以外にない完全な即興演奏だからである。英語ではそれを improvisation と呼ぶ。即興演奏である限り二度と同じ演奏はできない。その場限り、その時限りである。唯一回の今を生きる。一期一会を生きる。その演奏を聴きながらそのことの大切さを思う。

キース・ジャレットの語る言葉がこれまたすごい。「私は自分で創造できる男だとは思わない。しかし創造への道は目指しているつもりである。私は創造の神を信じる。事実このCDの演奏は、私という媒体を通じて、創造の神から届けられたものである。なし得る限り、俗塵の介入を防ぎ、純粋度を保ったつもりである。こうした作業をした私はなんと呼ばれるべきであろうか。創造の神が私を何と呼んでくださったか、私はおぼえていないのである」(『ケルンコンサート』ジャケットノートより)。彼の言葉を知った上でもう一度その演奏を聴くと鳥肌が立つような思いを持つ。

まだまだ残暑の厳しい日が続いているが、暑さを忘れさせてくれるような演奏がある。私たちは10月8日にはむさしの教会の宣教75周年を共に喜び祝おうとしている。この現在を過去と未来とに結びつけて位置づけてゆきたい。神のいのちの霊がキリストの教会を生かすのだ。私たちもまた創造の神から霊の息吹をいただいて、私たちのいのちの瞬間々々を即興的に刻んでゆきたいと願う。一期一会の出会いを大切にしながら。

キース・ジャレット演奏をしばらく挿入

ここで『ケルンコンサート』の最初の部分を聴いてみたいと思います。(♪ ケルンコンサートの冒頭部分にしばらく耳を傾ける ♪) このような即興演奏が、楽譜なしに、1時間以上も続くのです。

Creativity クリエイティビティー

総会資料の2003年の宣教方針というところに書かせていただきましたが、今年はご一緒にCreativeな一年を味わいながら過ごして参りたいと思います。創造主(the Creator)なる神さまを見上げて、そこから与えられる生命の創造の霊を感じながら歩みたいのです。キース・ジャレットではないですが、上よりの風を感じつつ、クリエイティブ(創造的)に生きたいと思います。

私たちに託されている生命のエネルギーを破壊的にではなく創造的に用いてゆきたいのです。それはおそらくこの現実の世界の中では容易なことではないでしょう。秩序正しく組み立ててゆくことは秩序を崩してゆくことよりも遥かに困難なことだからです。

私は1995年4月より、福山教会の牧会を離れた後、フィラデルフィア留学前の四ヶ月間を留学準備の時として過ごしました。ある福山教会員のアパートの4階に住まわせていただいたのですが、毎日英語の勉強に疲れるとベランダから外を見て、遠くの山や川、空や近くの家々などをぼんやりと眺めていました。ある日、一軒の古い家が取り壊されるのを見ていましたら、アッという間にそれはブルドーザーで壊されてゆくのです。一日で何もない更地になりました。しかし、それからは時間がかかりました。何ヶ月もかけて新しい家を建ててゆくのです。壞すのは一瞬(たった一日)でしたが造り上げてゆくのには何ヶ月もかかった。破壊(すなわち無秩序にしてゆくこと)は一瞬ですが、創造(秩序正しく組み立ててゆくことに)は時間がかかるのです。これは何年も何十年もかかって積み上げてきたものがあっという間に積み木崩しのように崩されてしまうことと似ています。

創造的に生きるための基礎練習

先のキース・ジャレットの演奏も、音階練習や和声の動きなど、絶え間のない基礎練習、基礎的な技術の積み重ねの上に成立しています。最初から勝手にやっているわけではないのです。まったくピアノを弾けない私のような者が弾いても不協和音ばかりになってしまいます。基礎を身につけ、そのテクニックを自由自在に応用することができるところまできて初めて、「無」となって、「自分は何もしていない」と言うことができるのです。

creativity/創造性ということを考えるとき、私たちにはやはり基礎訓練が必要なのでありましょう。創造の喜びを味わうためには、忍耐をもって丁寧に基礎を身に付ける作業が必要です。その上で初めて自由に風の吹くままに創造のみ業に参与してゆくことができるのではないかと思います。書道や茶道、華道や武道、また音楽や美術や焼き物などクリエイティブなお仕事や趣味を持っておられる方はよくお分かりになると思います。何事も基本形が大切なのです。それらを組み合わせて応用してゆくのです。

では、私たちにとってクリエイティブに生きるための基礎訓練、音階練習とは何でしょうか。私たちにとっての基礎訓練、創造の源は、やはり、日ごとの祈りであり、み言葉でありましょう。神さまとの対話です。私たちの思いを、要所要所で神さまに向けてゆくことです。そして、他者に対して小さな奉仕を積み重ねてゆくことでしょう。

論語にはよく知られているこういう言葉があります。「われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、矩を越えず」と。(子曰く、「私は、十五にして学問を志し、三十にして独自の見解を持つようになり、四十にしてあれこれと惑わず、五十にして天命をわきまえ、六十にして人の言葉が素直に聞かれ、七十にして心の思うままに振舞って、道を外すことがなくなった。」)

私はこれを思い起こすたびに、自分とはずいぶん違うなあと思います。15歳の時に私は学問も何も分かりませんでしたし、30歳の頃(29歳)にようやく牧師として立ち得たのですが、40歳の不惑の歳を迎えてもまだ惑いばかりでした。今も破れたところ、欠けたところばかりなのですが、それでも何とかこの70歳の自由な境地に達すべく、それまでの年月を積み重ねてゆくことが大切なのだろうと思います。そのためにも「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)と語られていたように、日ごとにキリストとつながり続けることがクリエイティブに生きるための基礎訓練として大切であると思います。

今年の標語は Creativity/創造性 ということで神さまの聖霊の息吹を感じながら、一年間を過ごして参りたいと思います。人間の罪の現実の中で、どれほど破壊的な事柄が多く起ころうとも、どれほど行き詰まりばかりに見えようとも、愛とは造り上げてゆく力なのです。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1コリント8:1)とパウロは言っています。また、「為ん方つくれども希望を失わず」とも語ります(2コリント4:8)。そこには神からの愛の風が吹いている。万物を創造してゆく神の力、それは愛なのです。キリストの愛の息吹(風)をいただいて、神さまから託されたこの命を味わいながら、クリエイティブに生きる。そのような一年の歩みをご一緒に歩んでまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな聖霊の力が注がれますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年2月2日 むさしの教会総会礼拝説教)