説教 「生きることはキリスト」 大柴譲治

フィリピ 1:12-30

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「喜びの手紙」

フィリピ書の連続講解説教を先週から始めています。「喜びの手紙」と呼ばれるほど喜びに満ち溢れているこのフィリピ書が実はパウロが牢獄の中から書いた獄中書簡の一つであるということを、先週は「キリスト・イエスの僕」という1:1の言葉を中心に学びました。本日は特に1:21、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」という言葉に焦点を当ててゆきたいと思います。これはこのフィリピ書の中でパウロが一番伝えたかった言葉の一つであるように私には思えます。それほど私たちの心に強く心に響いてくる言葉だと思います。それはどうしてなのでしょうか。何が私たちにそれほどまでに迫ってくるのか。そのあたりを探ってまいりましょう。

福音の前進のために役立つ!

パウロがこの手紙を獄中から書いていることは12-14節に明らかです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。

自分が投獄されていることがキリストの福音の前進に役立っているという現実をパウロは喜んでいます。この投獄の苦しみには大きな意味があるというのです。福音宣教をパウロは自らの使命としていました。そこからこの苦難をもプラスに位置づけています。「生きることはキリスト、死ぬことは益である」という表現は、自分の生も死もすべてはキリストのためにあり、キリストと共にあるのだというパウロの信仰の告白でありましょう。

しかしこのパウロの言葉は、自分のことしか見えなくなっているという次元の言葉ではありません。私たちは何かに熱中すると視野が狭くなって自分のことしか見えないということがよくあります。自分だけの世界に入ってしまって、周りが見えなくなってしまう。パウロは獄中という拘束された不自由な環境に置かれているはずなのに、その言葉には何かとても自由な息吹きが感じられます。これは大変に不思議なことです。

私などは狹いところや拘束されることが嫌いですのでそのような状況を考えただけで身の毛がよだつような思いがして、窒息してしまうような恐怖感を持ちます。そのような状況を好む人はほとんどいないでしょう。パウロも獄中で苦しまなかったわけではないと思われます。しかしその苦難をパウロは、キリストの福音の前進のために喜ぶと言っているのです。苦しみに意義を見いだすことが出来る時、その苦しみは既に乗り越えられていると言ってもよいのでありましょう。

パール・バック(1892/6/26-1973/3/6)というよく知られた米国の女流作家がいます。中国に宣教師の娘として生まれた人で、国語の教科書などにも出ていました。パール・バックは自ら母となった時、精神的に重たいハンディを背負った一人娘を育てるという格闘を通して、『大地』『息子たち』など人々の魂に強く訴えかける多くの作品を書いてゆきました。それらを通して彼女はノーベル文学賞やピュリツァー賞を与えられてゆきます。

そのパール・バックの言葉に次のような分析があります。「私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしている限り、人生は私にとって耐えられないものでありました。そして私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せることができるようになった時、悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのでありました」。そしてパール・バックは、「悲しみにも一つの錬金術に似たものがある。悲しみも英知に変わることがあり、それはかりに快楽をもたらすことはないにしても、幸福をもたらすことができるのだ」ということに気づいてゆくのです。

中心を自分に置くのではなく、自分の外に置くことができるということは、自分自身を(絶対化するのではなく)相対化することができるようになるということでもありましょう。「私にとって生きるとはキリスト、死ぬことは益なり」というパウロの言葉は、まさに中心を自分ではなく、キリストに置いているものとして読むことができるのだと思います。そこから大きな喜びが湧き上がってくるということをパウロは体験しているのです。

「生きるとはキリスト、死ぬとは益」

パウロは15-20節に次のように書いています。パウロにとって「中心はキリスト」ということがよく分かる文章です。

「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」そして21節の言葉に続きます。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。

パウロはここでキリストと共に生き、キリストと共に死んでいる。キリストと生と死を分かち合っているのです。信じるということ、キリストに従うということは、パウロにとっては、キリストと共に十字架にかかり、キリストと共に復活するといういことを意味します。それほどまでにパウロとキリストが一体となっている。いつ処刑されるか分からない獄中という生と死のギリギリの場に置かれていながら、パウロはただ「キリストと共にある、キリストと結ばれている」ということだけに関心を持っているのです。それだけがパウロにとっては重要な事柄であり、それがすべてであったのです。

「死」とは「キリストと共にあること」

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益」という言葉に続いてパウロは大変に興味深い言葉を語ります。22-25節はパウロの死生観が他のどの書簡よりも具体的に記されている箇所です。「けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。」

パウロは死を全く恐れていません。パウロにとって「生きること」は「キリストと共に生きること」であり、キリスト抜きの生は考えられないのです。そして「死」(=「この世を去ること」)ねば「直接キリストと共にいることになる」のであって、そしてこの方が自分としては「遥かに望ましい」ことなのです。彼にとって「死」とは、自分とキリストを隔てていたものを取り除いてくれる恵みの出来事なのです。死の門をくぐると、キリストと直に相まみえて生きることになるとパウロは信じている。だから死ぬ方が遥かに望ましいと言う。しかし、「生き続けて人々のためにキリストの福音を宣べ伝えること」と「死んで直接キリストと結びつけられること」との二つの間でパウロは板挟みになっています。

ですからパウロのこの「わたしにとって生きるとはキリスト、死ぬことは益である」という言葉は、一言で言えば「インマヌエル」と理解されるべき言葉でありましょう。「神がわれらと共にいてくださる」のです。このインマヌエル、キリストが共にいましたもうという事実が獄中のパウロを支えている。インマヌエルの光がパウロを明るく照らしていると言ってもよい。この光が牢獄の闇の中にあるパウロに自由を与えているのです。「生きるとはキリスト、死ぬことは益」という言葉はこの光に照らされた者だけが告白することができるまばゆい信仰の言葉なのです。喜びの言葉であります。

私たちは自分が生きているのではなく、キリストによって生かされている。ダマスコ途上で復活のキリストと出会ったパウロにとって、キリストこそが命であり、キリストを離れてはどこにも命はないのです。それほど大きな、確かな光に照らされたパウロ。その時、パウロは三日間目が見えなくなったと使徒言行録9:9には記されています。この光は、生も死も、現在のものも将来のものも、他のどんな被造物も影をかけることのできない光なのです。

先年『世界の中心で愛を叫ぶ』という本と映画が評判になりましたが、実はパール・バックが洞察したように、「中心を自分から外す」必要があるのです。世界の中心は自分ではなくキリストであり、十字架と復活のキリストが愛を叫んでくださっているのです。このような次元に私たちもまたパウロと共にキリストによって招かれているのだということを覚えて、それを深く味わいながら新しい一週間の歩みを始めてまいりたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年9月10日 聖霊降臨後第14主日聖餐礼拝 説教)