説教 「キリストを信じるとは」 大柴譲治

フィリピ 3:1-11

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

3章で語調が変わる理由

9月最初から連続してフィリピ書を読んでまいりましたが、3:2からはそれまでとは全く語調が変わり、論争的な言い方になっています。先週の箇所が若き同労者テモテとエパフロディトについてのパウロの父親のような温かい言葉だったので、なおさらその落差に驚かされます。なぜかくも語調が変わるのか。3章は別の時に書かれた手紙がここに挿入されていると考えられます。フィリピの教会にも、ガラテヤの教会と同様、割礼を重視する律法主義的な異端者(ユダヤ主義者)たちが入り込み、教会に混乱をもたらしてゆく。彼らは自分たちが神の霊に導かれており、「完全な者」と思い上がっていたようで、パウロはこの手紙で厳しくその誤りを批判してゆくのです。

ガラテヤ書1-2章と並び、3:5-6はパウロが過去の自分について語っているという意味で貴重な歴史証言であり興味深い箇所です。若き頃パウロはユダヤ教の律法主義者、しかもエリート律法主義者でした。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。ガラテヤ書にはこうあります。「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(1:13-14)。

「教会の迫害者」であったパウロはステファノの殉教にも関わっていました(使徒8章)。パウロはエリート中のエリートとして強いプライドを持っていた。「律法の義については非の打ちどころのない者」という言い方はそれが並大抵のプライドではないという感じがします。どこか自分の足りなさを感じるというのではない。自分は絶対に間違っていない、自分が求めているのは神の最高の真理ということに絶大な自信を持っていたことが分かります。大変なものです。

コペルニクス的転換

そのパウロがキリストと出会って180度変えられるのです。迫害者が伝道者になるのですから劇的です。生き方と価値観のコペルニクス的な転換が起こる。それが7節からの部分に他のどこよりも明確なかたちで示されます。そこには無駄な言葉も表面的な飾り言葉もありません。心底打ち砕かれた者だけが深く共感することができる、一つひとつが生きた真実の言葉だと思います。いや、それは中途半端な私たちを徹底的に打ち砕く言葉かもしれません。そして打ち砕かれた者をキリストにまで導く言葉です。

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(7-11節)。

説明は不要でしょう。ただ繰り返し味わうだけでよい。キリストと出会う以前にパウロが持っていた価値観とキリストと出会った後のそれは完全に変わってしまいました。闇と光のように、両者は全く交わることのない世界です。

恥とプライド(誇り)

ただ事柄はそれほど単純ではないようです。キリスト教の迫害者であった時には、パウロは非の打ちどころがないほど熱心な律法主義者だったと言いました。しかしその時パウロは実は不安で不安でたまらなかったのではなかったかと私は思います。だからこそ、その不安を誤魔化し打ち消すために、必死になって律法主義に精進していったのではないか。プライドの強い人は恥の意識も強いのです。恥と誇りは表裏一体だからです。

パウロは恥の意識が誰よりも強い人でした。恥に敏感な人には四つの行動パターンがあります。強い恥は私たちを四つの方向に動かすと言ってもよい。その第一は「完璧主義」です。恥をかかないためには全てを完璧に行えばよいのです。そうすれば恥をかかなくてすむ。職人気質の人などはそうかもしれません。それをうまく生かすことができれば類いまれなる職人芸を獲得できるでしょう。しかし恥をかきたくないという次元で必死に頑張っても、完璧主義の延長線上には本当の意味での、信仰が与えてくれるようなコペルニクス的転換の喜びも平安も満足もありません。休むことなくずっと走り続けなければならないからです。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」という10-11節の表現には、パウロの完璧主義的な傾向が残っていてほほ笑ましく思われます。それはしかし以前とは全然違う、自分中心ではない、キリストが中心の喜びに満ちた職人芸的な完璧主義です。

ちなみに「完璧主義」の反対にある反応は「引きこもり」です。閉じこもることです。恥ずかしい時に私たちは穴があったら入りたいと思いますが、それはどこかに隠れることで自分の存在を抹消したいということです。昨年のリフォーム以来、私の牧師室には床に抜ける穴が与えられました。恥ずかしい時に隠れることができるほどの大きさの穴です。穴があるだけで安心というのは私も恥の意識の強い人間であることを明らかにしていると思います。

恥に対する反応の残りの二つは、やはり対極にありますが、「人を攻撃する(責める)」か「自分を攻撃する(責める)」かです。周囲にプリプリ文句ばかり言っている人、怒ってばかりいる人は自分の中に強い恥の意識を持っていると言えるかも知れません。かつてのパウロも他に対して攻撃的でした。

繰り返しますが、恥と誇りはいつもワンセットで捉える必要があります。パウロはローマ書1:17で「われは福音を恥とせず」と言っています。これは意味としては「私は福音を誇りとする」という意味ですが、もっと深い響きが感じられます。「自分の中には何も誇るものを持たない。恥しかない。しかしそんな私が唯一恥としないものがある。それがキリストに福音だ」とパウロは言っているのです。修辞学的に二重否定は強い肯定でもあります。

キリストと出会う以前のパウロはプライドに支配された惨めで不安な脅えた存在でした。しかしキリストと出会って彼は本当の喜びを知ったのです。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」。パウロは本当の宝物を知った。それ以外の全てが塵芥のように、口語訳聖書はここを「糞土のように思っている」と訳していましたが、この方がパウロの表現に近いと思います。もっとストレートに訳すならば、「キリストにゆえにわたしはすべてを失った。けれどそんなこと糞食らえ!」ということです。キリストと出会ったあまりの素晴らしさにパウロにはすべてが色褪せて見えるのです。

パウロがダマスコ途上で復活のキリストの声を聞いたのが33歳頃であり、このフィリピ書を書いたのはおそらく55歳頃のことです。だとすると20年以上もパウロはこの喜びに捉えられていることになります。これはすごいことです。それは一過性の喜びではなく、持続的な喜びです。キリストとつながっているという事実が信仰者に喜びを与えてくれるのです。

恥からの解放~キリストの十字架

パウロは恥と誇りに囚われた律法主義の泥沼地獄から、あのキリストによって解放されました。キリストが私たちの罪と恥を十字架に背負い、代わりにご自身の義と愛を私たちに与えてくださった。キリストが私たちの貧しさを背負い、代わりにご自身の豊かさを与えてくださったのです。これは喜ばしき交換です。キリストに愛に捉えられたパウロはここで喜びに輝いています。このフィリピ書は牢獄の中から書かれたものですが、パウロは明日をも知られぬ我が身を嘆くのではなく、「わたしにとって生きることはキリスト、死ぬことは益である」(1:21)と高らかに宣言しながら、どこにあってもキリストと共に生き、キリストと共に死ぬこと、キリストと共にあることを何よりも一番なくてはならぬこととしています。今日のところからはそんなパウロの熱い思いが伝わってきます。

もう一度本日の箇所を味読して終わりにいたしましょう。(フィリピ3:1-11朗読)

お一人おひとりの上にキリストの愛が豐かにありますようお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年10月15日 聖霊降臨後第19主日礼拝 説教)