ヨハネの黙示録 7: 9-17
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。光の中の光
武蔵野教会のみなさん、お招き感謝いたします。共に神様を賛美し、み言葉を聞くことを通し、今日の礼拝が祝福され、大きな喜びと励ましが上より与えられ、わたしたちの信仰の歩みが強められますようお祈りします。本日の礼拝では、自由に聖書のみ言葉を選んでもよい、と大柴先生に言っていただきましたので、礼拝後に予定されているわたしの講義との関係も考えて祈り、ただいま拝読したみ言葉が与えられました。ヨハネ黙示録は、文字どおり黙示、まぼろしを中心にした書です。著者ヨハネは、1章9節で、『わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた』と言っていますから、彼がトルコのエーゲ海側で、エペソの遥か沖にある島パトモスにいたことは確かです。しかし、それは伝道のためかというと、キリスト教伝道の初期にそんな不便な島が選ばれることはまず考えにくいことです。古来、推論されていることは、彼はそこに流刑になっていた、ということです。キリスト教とローマ帝国の間にあった一種の蜜月時代が終了し、ローマが皇帝を神とし、皇帝礼拝を民衆に強制したことから、いやでもキリスト教はローマと真正面から対決することになり、迫害の時代にはいりました。皇帝へではなく、まず神への忠節を貫き、自己の信仰の姿勢をはっきりさせたため、ヨハネはパトモスの島に流刑になった、ということです。日本の歴史になぞらえて言うなら、信長とキリシタンの蜜月時代が彼の死によって突如終結し、秀吉をへて、家康の時代にはいり、世界に類をみない迫害の時代にはいっていった、その頃のような状況と考えてよいでしょう。そこでは信仰することは、命を落とすことになりかねない時代、そういう、まるでトンネルの中、暗黒の中にはいってしまった時代に、ヨハネは、その行く手にある光を目撃し、暗黒にあるからこそ、その光を希望としてひとびとに指し示しているのです。きょうのみ言葉は、その光のなかの光とでもいうべきところです。歴史の終わりに起こること、わたしたちがいま信じていることが、もう信じるということから、見えるかたちで具体的に完成する時、そういう終末、そういう到着点、そしてそこから始まる神と人との新しい世界をヨハネは、迫害の中を生きている人々にみせたのです。玉座にいる小羊、イエスがわたしたちの牧者になり、命の泉へと導き、わたしたちの目から涙をことごとくぬぐいとってくださる時が必ず来るのです。わたしは今日、特にこのまぼろしの冒頭の言葉に皆さんの注意をうながしたい。『この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、大声で神と小羊、イエスを賛美している』というのです。あらゆる違いがなくなり、人類が一つになった時には、こうなる、というのです。この一になるところへ向けて、神が歴史を動かしておられる。それがヨハネの言っていることです。
聖書における一
しかし、人類が一つになる、そんなことが本当に起こり得るのでしょうか。それこそ夢みたいな、まぼろしにすぎないのか。けさ、わたしはこの一ということに集中的に注目して、み言葉に学びたい。聖書で一ということがもっとも顕著に語られている箇所は、ご存じのように、使徒パウロのローマの信徒に与えた手紙の5章17からです。次のようにパウロは言っています、「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」。一人、乃至一という数字が、この5章12節から19節のわずか7節の間に、何と12回出てまいります。たった7節の間に12回同じ言葉が繰り返されているわけですから、これは異常です。他にこうした例をあげれば、コヘレトの言葉3章でしょう。何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、云々と次々に『時』と言う言葉が30回も繰り返されています。しかしコヘレトは一種の哲学的な文章ですから、こうしたたたみかけるような繰り返しの文章があっても不思議ではありません。しかしパウロの場合、これは純然たる手紙なのですから、これはやはり特別中の特別な箇所と言わざるを得ません。パウロはここで、一人、一ということをこんな風に最大限に強調しているのですが、それはなにも文章のレトリック、文章技術の問題ではないのです。皆さんにここがわかって欲しい、ここを理解して欲しいという思いが、パウロにこのような手紙を書かせているのです。『一つ』になるということは、かくも重要なことなのです。「一枚の木の葉を手にいれれば」
一、あるいは、ひとつ、これは数字の最も小さい数字です。しかし出発点であり、また基本です。ゼロという数字があっても、それはある意味では無を示すわけですから、やはりものの存在を有としてとらえる場合、一が出発点でしょう。少し前に機会があって、わたしは家内と一緒に茨城県の五浦(いずら)を訪ねました。知る人ぞ知る、岡倉天心が東京美術学校校長の職を離れ、日本美術院を創設し、そこに居を移し、横山大観など、後の日本美術界の大御所になった人々を集め、活動をした所です。今、立派な天心美術館がありますが、そこに安田ゆき彦と小倉遊亀さんの作品がありました。わたしは絵のことは、全くわからないのですが、安田ゆき彦は小倉さんの先生で、いつか小倉さんが語っておられた話を読み、わたしは深い感動を覚えたことがあります。それを思い出しました。小倉さんが画家として立つかどうか、迷いぬいていた時に、画家として立つことを決心させたのはこの安田ゆき彦の言葉だったというのです。その言葉は『一枚の木の葉を手にいれれば、宇宙を手にいれたことになる』というような言葉でした。一枚から宇宙が見えてくる。絵の世界とはそういうものでしょう。それほど一枚、一が重要なのです。世界の現実の闇の中で
これは良い意味での一の貴さを語る話です。しかし、このところ世界のあちら、こちらでは『ひとり』あるいは『一』ということをないがしろにした事件の続出です。インドネシアのバリ島で200名ちかい人が犠牲になったと思ったら、その記憶も消えぬうちに、モスクワでは、120名ちかい人がやはり犠牲になる事件が起こる。ホーチミン市では火災でやはり百人以上の人が命を落とす、というニュースが飛び込んでくる、と言った具合です。その間にあちら、こちらで10人、20人くらいの人が殺害されるといった報道、地震でこどもが十数名命を落とした、という辛い話がはいってきます。それらがみなここ一月ぐらいのことです。そのような中で、独裁者スターリンが言ったという言葉が新聞などで目にとまりました。一人の死は悲劇だが、百万人の死は、単なる統計にすぎなくなる。いつ、どこで、彼がそういうことを言ったのか知りませんが、このように人の死がたばねて報道されますと、たしかに統計になってしまいかねません。わたしたちの生きている時代は、こういう時代なのです。そういう時代に生きるためには、一人の死は辛い、悲しいことなのだ、という『一人』の人間の立場にいつも立つ、するどい意識を持っていなければ、わたしたち自身の中でも、人の死を統計の一部にする、麻痺した感覚になる危険があります。イエスは、人を十把ひとからげにして決して論じません。ある教会学者は、とくにマルコ福音書の最初の数章でイエスはいつも少ない人数を相手にされたことを重要視しています。人々が群衆になるとイエスの方から身をひかれ、ひとりになる。あるいは、ひとりの人間をそこから連れ出して一対一になって話される、ということがそこに繰り返されている、それこそ教会の姿だというのです。こうした神の子イエスのひとり、ひとりの人間にたいする配慮が、やがてこの宇宙的なスケールで結集して起こると言ったら、皆さんは信じますか。しかしヨハネが今日、わたしたちにはっきり示していることは、それなのです。神が、神の愛ゆえに、恵みとみ力をひとりひとりに注がれる、しかし、一つ一つの一から、全体をまとめあげた一、愛が全体に及ぶのです。人類は神の愛のわざのなかで一つにされるのです。ここにキリスト教が普遍宗教だという根拠があるのです。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく、ぬぐわれるからである」ということが、すべてにゆきわたるのです。イエスさまが直接わたしたちを牧してくださり、永遠の命あずかることをゆるされた人々全員が、地上での区別を超えて、恵みの世界に生きることをゆるされる、というのです。これが、わたしたちの行く手に待っている、わたしたちのゴールなのです。だからもうそこには、争いなどは起こりようもない。神賛美に声をあわせるだけです。国連が創設された時、国連の希望のしるしとしてあのイザヤ書2章の、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とし、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という聖書の言葉が選ばれ、壁にしるされましたが、ヨハネのこのまぼろしこそ、いまは本当に希望の言葉ではないかとすらわたしは思います。これは幻ではないのです。そこにパウロの言葉の意味の重さがあるのです。
パウロは言いました。ひとりの人、アダムの罪によって死が全人類におよび、すべての人が罪人となってしまった。しかし、いまやひとりの人イエスによって、その十字架の上の死と復活という恵みによって、すべての人が恵み、命を与えられたのだ、と。これを信じられないなら、私たちの信仰とはなんなのか、国家、種族、民族、言葉を越え、救いという出来事の中で人類が一つにされるということが信じられないなら、キリスト教はなにをもって自分を世界宗教だと言えるのか。この一、小倉さんの言葉を使わせていただけば、一枚の葉をわたしたちは手にいだいているのです。その一枚の葉から自分の人生、この世界、人類の行く手を見ることができるということ、これがキリスト教信仰ではないか。これこそがキリスト教徒が自分の行く手に見ている、もっともたしかな希望、神の約束…、この世のもろもろの約束や希望が朝露のように消え去っても、残り続ける希望であり、約束として、わたしたちは見あげていくのです。
一とされることの証し人
最後にわたしはひとりの神学者の非常に示唆にとんだ言葉を紹介してこの奉仕を終わります。スエーデン神学者ウィングレンは、われわれはイエスによって、創世記12章までのところへ帰るのだ、と言っています。どういう意味かと申しますと、創世記12章までは、聖書は分裂した国家や民族についてはなにも書いていない。そこでは神によって創造された人間、人類が描かれているのだ。アブラハム以降になるとイスラエル民族が主人公になり、いろいろな国が生まれ、そこでの葛藤、戦いの歴史が延々と書かれ、歴史は扇の末広がりのようになっていくが、しかし神はイエスをおくることによって、その末広がりが、逆に再び一点に帰っていくのだ。イエスにあって人類は創世記12章以前へ戻るのだ。われわれは創世記12章までをそういう意味においても大切にするのだ。ばらばらの人類は神の創造の時にはない。しかしイエスにあってばらばらになる以前の人類へ、われわれは帰ることがゆるされたのだ、とウィングレンは言うのです。これがまたパウロがローマの信徒への手紙5章で、一、一、一、と繰り返し一を強調している内容なのです。いまこの大混乱の時をも生きているわたしたちは、なによりも、この一とされることの証し人でなければならない。それが現代の重要な宣教でもある。トンネルの中に入ってしまったこの世界に、トンネルの行く手にある光をわれわれは指し示していくのです。憎しみをエネルギーにしているようなこの世界に、そうではない、神は人類を一つに結集してくださっているのだ、というこの神のみ業、その愛を証ししていかねばなりません。そのような証し人の家族としてのこの武蔵野教会に祝福あれ、アーメン。おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2002年11月10日 聖霊降臨後第25主日礼拝説教)
柴田千頭男牧師は、静岡県出身の日本ルーテル教団引退牧師。飯田橋ルーテルセンター教会牧師、教団議長、ルーテル学院大学教授(実践神学「宣教学」「説教学」「牧会学」)などを歴任。新共同訳聖書旧約と続編の翻訳者としても関わる。その説教者、牧会者、伝道者としてのパトスのある働きには定評がある。現在はルーテル学院大学名誉教授。この日には、礼拝後に「葬と儀」という題で柴田先生よりご講演をいただいた。